サファリの手帖 <アフリカ徒然草B> Top Pageへ戻る

 BodiGirlsSings

古代を生きる人々
エチオピア<ボディ族>訪問記

目  次

#エチオピア南西部オモ川中流域に住む<ボディ族>の村を訪ねた。
#言語的にはナイル・サハラ語族 東スーダン語派 スルマ系
#黄色のボディ青年とすれ違ってまもなく、目的の村に着いた。
#翌朝、ジンカから付き添ってきた観光省のマモ氏が……
#ボディ族と付き合いの長いアブタムは、
#ところで、胸をつかまれたヒルットゥ女史は、
#僕らが取材したボディの放牧集落は、概ね以下のようである。
#ボディ族 放牧集落の日常生活
#<キャンプ移転>
#午後、打ち合わせ通り農耕集落へ出かけた。
#翌日からの取材は放牧集落と農耕集落を交互に訪問する
#そして、今回取材のテーマ<色>である。
#<黄色い顔料>
#エチオピアTVのヒルットゥ女史は、
#<疫病防止の儀式・延期>
#<エジプト博物館の展示品>


文と写真: 蔦 田 直 嗣 
<(C)マークの写真2点を除く>
 エチオピア南西部オモ川中流域に住む<ボディ族>の村を訪ねた。
 <色彩>がテーマのテレビ番組の取材だったが、文献によると、ボディ族は優れた色彩感覚の持ち主であるという。その色彩感覚と彼らの暮らしぶりを取材させて貰おうと、出かけたのだった。
 彼らの居住域は首都アディス・アベバから4輪駆動車で2泊3日。
 滞在予定期間1週間分の食料・キャンプ資材を首都で調達しての旅となる――彼らの居住域では僕らの口に合う食料品は入手が困難だと言うからだ。Jinka-Hanna
 人口2万程度の<ジンカ>が最寄りの町になる。ここからボディ居住域の村までは112Kmだが、車両1台がようやく通れる山道を5時間半――平均時速20Kmの移動となった。雨が降ったら通れなくなる山道だ。標高もどんどん下がり、目的地に近づくにつれ暑さが増して行く。目的地まで20Kmの小さな流れを渡り終えるとドライバーはクルマを停め、キャンプスタッフ、付き添いの役人など、堪らず川に入り上半身裸になって頭から水をかぶる。僕らも川に入り顔や首筋をジャブジャブと洗う。汗まみれの上に、山道で埃まみれだ。
 目的地まで10Kmを切ったあたりで左手の藪から数頭の牛を追って2人の男が現れた。
 ボディだ。
 1人は牛追い用の長い棒を持ち、いま一人は軍用ライフルを肩に担いでいる。どちらも簡素なビーズやコヤス貝のネックレス、金属の腕輪・足環で飾っているが、1枚の布をまとめて肩にかけている以外、下半身まで裸だ。この部族が割礼しないことを、僕はその姿を見てはっきりと知る。
 しばらく行くとボディ族の若者が1人で歩いていた。彼は黄色い布を鉢巻のように頭に巻き、通り過ぎるクルマを見やるその顔は、鼻を中心に鉢巻の黄色と同色の顔料で彩られていた。
 ――文献にあった通り、黄色が<彼の色>なのだろう。尋ねれば、彼の名前も黄色にちなむ名であるはずで、父親から誕生時に譲り受けた牡牛も身体のどこかに黄色を持っているはずなのだ。
 牛を唯一の価値ある資産と考え、牛の体色にちなんで子どもを名付け、名付けられた子はその色と名まえを生涯、自己確認の"よすが"とする。そんな風に家畜の牛と色にこだわる人々はどんな暮らしを営んでいるのか。それを僕らは1週間の滞在で知ろうとしている。

 ボディ族は、言語的にはナイル・サハラ語族 東スーダン語派 スルマ系に分類されるという。
 「語族」ではケニア/タンザニアの国境沿いに住むマサイ族、ケニア北部のサンブール族、トゥルカナ族などと同一だが、これらは東ナイロート語派と分類されるのでボディとは異なる語派になる。が、ボディ族の生活様式を見ると、東アフリカで馴染み深いマサイやサンブールと多くを共有している。
 ボディ族には男性中心の<放牧集落>と女性中心の<農耕集落>とがあり、原則的に農耕を行わないマサイ族とは一線を画しているが、その放牧集落での暮らしぶりは驚くほど似通っている。
 夜明け前に搾乳した家畜を子どもと若者たちが放牧に連れ出す日課は一緒であるし、手に持った瓢箪に直接搾乳する手法も同一だ。ただ、マサイ族では搾乳が女性の仕事となっていることは異なる。また、牛の頚動脈を弓矢で突いて血液を瓢箪に受けミルク共々摂取して食事とすることも、弓矢という道具立てを含め、まったく共通している。採血後の止血に牛糞と土を混ぜ合わせたものを塗りつけるところまで同じだ。Cattle
 そして、牛を唯一の資産と考える点も、言語こそ異なれ、この人々が数百年か千年単位なのか、ともかくそういう時間をさかのぼったどこかで密接につながっていたことを物語っている。
 こんな場面に遭遇すると、僕はいつも遠い昔に起こったことを想像してみようとする癖がある。
 ナイル川周辺で放牧や遊牧で生活していた人々が、西や北東から耕作地を求めて移動してくる農耕民に押しやられ、じわじわと南下を余儀なくされる。遊牧民は家畜さえ育てられれば土地に執着することはないから、無用な争いを避けて移動することにさしたる抵抗感はなかったのではないか。そうした移動の過程で、ある一族は南下をやめてある地域に収まる。収まり所に行き合わなかった一団は更に南下を続け、ついにキリマンジャロ山周辺に辿り着く――それが、ナイル・サハラ語族域最南端のマサイ族。
 学者ではない僕は確たる裏付もないままにそんな空想をして、スーダン・エチオピアからウガンダ、ケニア、タンザニアの広範囲に少数ずつ居住するこの人々を眺める。いったい、どういうきっかけで「南下をやめて留まろう」と決意したのか。マサイ居住域以北に住むこの人々を見るたびあれこれ想像してしまう。
 やはり、長老会議が持たれただろう。
 屠った家畜の内臓をぶちまけて、その流れ出し具合から様々占いも行っただろう。

 「留まろう」と言う者と「移動しよう」と言う者と、意見の相違もあったに違いない。
 そんなところで袂を分かち、ある者たちはディンカ族となり、ある者たちはトゥルカナ族、サンブール族、ボディ族となる。広い大陸を流れた悠久の時間の中、幾世代にも渡る旅路の果てに今、この人々はそれぞれの場所にこの様にある。――

 黄色のボディ青年とすれ違ってまもなく、目的の村に着いた。

 まず警察署に出向き、滞在する旨を告げる。警察署と言っても、署長を始め総勢6名という小規模なものだ。首都で雇ったドライバーやキャンプスタッフにとってもこの村へ来るのは初めてなので、適当なキャンプ地を警察官に尋ねている。警察官は敷地内の空き地を指さし「ここにテントを張ればよい」と言っている様だ。残念ながらアムハラ語の知識は皆無なので、ドライバーやスタッフと警察官とのやりとりの具合からその様に想像していた。
 すると、スタッフ最年長67歳コックの<ヤシン>が額に青筋を立てる様な勢いで猛烈に何事か若いドライバーたちに言い放ち、僕の方へやって来る。
 「警察はここにキャンプを張れと言っているが、こんな所にキャンプするのはよくないと思う。どこかもっと気持ちの良い所を探そうと思うが、どうか?」と、たどたどしい英語で尋ねる。僕も大賛成である旨を伝えると、横で聞いていた同行のエチオピア国営テレビ局プロデューサーの<ヒルットゥ女史>が「でも、ここなら安心よ」と、警察官の勧めに従おうと促す。聞けば、彼女はテント生活をしたことがないと言う。議論の場がこちらに移ったと見たドライバーたち、ジンカから付き添ってきた観光省役人<マモ氏>――僕ら外国人が取材をするとなると、実にたくさんの人を同道しなければならないのだ――などもやって来て、アムハラ語の議論が繰り広げられる。
 いったいに、アムハラの人々は議論好きだ。ともかく意見を述べずにおられぬらしい。自分がよく知らない事柄であっても意見をともかく述べる――エチオピアで行うインタビュー取材にはいつもてこずるけれど、インタビュー中に通訳者が自分の意見を述べ始めてしまう、ということがしばしば起こるためだ。
 結局、キャンプの主賓である僕ら日本人取材チームと年長者ヤシンの意見が入れられて、警察署裏庭でのキャンプは回避する。外国人を含めた議論の輪に気付いてやってきた地元の若者が、木立に囲まれた絶好のキャンプ地を知っている、と言うので道案内をして貰う。警察署から5分と走らず、目的地に着く。ヤシンが真っ先にクルマを降り、草の生い茂る一角へ入って行く。僕も後に続くが、高い草と丈の低い潅木のある雑木林で、テントを張るスペースを確保するのは難しい。雑木林の奥まで見て戻ってきたヤシンも同意見だった。が、それさえなければ、よく茂った高い木立に囲まれた格好のキャンプ地ではある。
 「今日はもう日没も近い」ヤシンが言う。「今夜はとりあえず手近な平地にテントを張って、簡単な夕食を調える。明日、あんたたちが仕事に出かけている間に別の良い所を探してキャンプを移し、昼食からはキチンとした食事を用意する。それで、いいか?」
 時計を見ると、日没まで1時間を切っている。ヤシンの提案に従うことにして、雑木林から50メートルほどの平地にキャンプを設営する。設営作業を始めると間もなく、人々がぞくぞくと集まってくる。Tシャツにスニーカ−姿の若者もいるが、一枚布を体に巻いただけの青年やヤギ皮二枚をまとった女性たちもいる。近在のボディ族の人々だ。Girls
 女性の二枚皮の衣装だが、一枚は膝丈の巻きスカートとして腰に巻き、もう一枚は右肩で結んでウェスト丈まで垂らし、上半身を覆っている。けれど、左の胸はむき出しだ。形よい盛り上がりを露出した若い女性が何人も集まると、習慣の異なる社会からやって来た僕らはどうしても伏し目がちになってしまう。
 集ったボディの青年たちは僕らのキャンプ設営作業を興味深げに眺めていたが、女性陣は停めたクルマのサイドミラーに顔を映してしきりに覗き込んでいる。鏡が珍しいのだろう。しまいには「この鏡をくれ」と言い出す娘まで現れた。
 青年も娘たちも、色の付いたアクセサリーを身につけている。前述の通り、黄色もいればオレンジ色もおり、黒、白、紺色――様々な色合いのものをそれぞれ身につけている。
 設営作業の手を止め手近の青年に首に垂らしたオレンジ色ネックレスについて尋ねてみる。幸いなことにアムハラ語を知っているので、ヒルットゥ女史に通訳をして貰えた。青年は、ネックレスは親から貰ったものであり自分の雄牛の色に合致したもの、と、文献通りの答えを返してくれる。ならばその雄牛を見せては貰えまいかと頼むと、彼は、村に最近出来た学校の寄宿舎に入っている身であり自分の牛のいる集落までは少々遠い、と言う。それでこの青年はアムハラ語を知っていたのだと納得が行き、牛は見せて貰えないけれども身に着ける色と牛との関連が明確になり、翌日からの取材に楽観的になることができた。
ボディ族の人々との初めてのコンタクトをそんな風に持ち、初日は暮れて行った。



 翌朝、ジンカから付き添ってきた観光省のマモ氏が
夜の間に手配しておいてくれた通訳者<アブタム>を拾い、彼の案内で近くのボディ集落へ向かう。アブタムは村役場の職員で、ボディ族ではないが彼らの言葉を流暢に話し、役目柄、近在集落を巡回してもいるのでボディ族に知己が多いという。惜しむらくは英語を解さないので、通訳業務は日本語・英語・アムハラ語・ボディ語という、4ヶ国語が使われることになる。ご想像の通り、伝言ゲームという遊びのようなことにもなりかねない。

 アブタムの自宅からボディ族の集落まで、自動車幅の「道」をたどる。この「道」はしばらく自動車が通った形跡がなく、両端のわだち部分にも短い草が生えている。それとは対照的に、道の真ん中に幅50cmほどの踏み跡がゆるやかに蛇行してくっきりとあるのは、ボディ族の人と牛が日常的に往き来している証しだろう。Village
 村はずれの人家を過ぎると見晴らす限り自然の植生が広がっている。下草はマサイ・ステップに見られるような密度はなく、短い草が目立つ。草原に点在する潅木には広葉樹というのだろうか、丸っこい葉をしたものが目立った。乾燥サバンナとは明らかに異なる植生だ。ケニア・タンザニアの乾いた草原を見慣れた目には、一見して<緑が豊かだ>と映る。
 10分と走らずに最初の集落にさしかかる。道から50mばかり入った草原に十数個の草葺屋根が見える。
 「この集落に寄るか、もっと奥の集落へ行くか?」と、通訳のアブタムがヒルットゥ女史を介して尋ねてくる。そんな質問をされても、初めて来た僕らには返答のしようもない。ボディ族の集落としてここには何か変則的なことでもあるのか? と尋ね返すと、そんなことはない、と言う。見回すまでもなく電柱や近代的な建物、電話用のマイクロ波中継鉄塔など、撮影の邪魔になるようなものもある筈がない。この集落とまだ見ぬ次の集落との差異は、僕らには知る由もないではないか。こちらが返答に困るような質問は、知らないことでも自分の意見を述べる、というアムハラ人の性癖と一脈通じるところがあるのかも知れない。
 ともかく、その集落に寄ってみることにする。
 牛の踏み跡沿いにクルマを進める。棘のある枝を積み上げた垣根越しに人の姿があった。そこでクルマを停めようとしたドライバーをアブタムが制し、踏み跡を更にたどる。聞けば、出入り口は一つだけで、必ずそこから出入りしなければならない、と言う。
 ここで良かろう、というアブタムの言葉に従い、ドライバーはささやかな木陰にランドクルーザーの鼻面を突っ込むようにして停車する。雲のない青空に太陽が輝いており、気温は38℃ほどになっている。ささやかな日陰でも利用しなければならない。
 クルマを降り、アブタムを先頭にぞろぞろと集落の敷地へ入って行く。垣根の途切れた「入り口」部分が敷地内で高い所にあたり、入った所はかすかな下り傾斜のついた広場となっている。広Tree場の先に葉を茂らせた大木があり、それが作る日陰に10人ほどの人影があった。ある者は地面に寝そべり、ある者たちは車座に腰掛けている。牛追いの長い棒にすがる様にして体重をあずけ、こちらを睨んで佇む人もあった。
 「ブシ」
 先頭を行くアブタムが、腰掛けている男にそう言いながら右手を差し出す。
 「ブシ」
 男はそう応え、アブタムの手を握り返す。
 <ブシ>が挨拶の言葉で、この人々には握手の習慣があると知る。後に続く僕らもアブタムの真似をして「ブシ」と言いながら握手の手を差し出して行く。腰掛けている人、佇む人のすべてと挨拶の言葉と握手を交わす。寝そべったまま手を差し出してくる人もあり、「ブシ」と言って握手を交わす。「ブシ、ブシ」「ブシ、ブシ、ブシ」と二度三度と繰り返す人があるから、挨拶言葉の<ブシ>は必ずしも一度だけ言うものではないらしい。相手が二度言うのでこちらも二度返すと、相手は握手の手を上下させながらまた三度、四度「ブシ、ブシ、ブシ……」と繰り返す。普段と異なる人声に小屋から駆け出して来る人もあり、この人々も挨拶の交換に加わる。そんなことを訪問者の僕ら全員が相手方のそれぞれと同時に行っているので、木陰はひとしきり「ブシ、ブシ」が充満したかのようになった。差し出される手を握り返しつつ「ブシブシ」と挨拶を交わしながら、時ならぬ訪問者である僕らを、警戒するよりは好奇心で迎えてくれているように感じられ、第一関門は突破できたようだと内心ホッとする。

 ボディ族と付き合いの長いアブタムは、
彼らと同じ、椅子を兼ねる枕を持参していた。この<椅子兼枕>は、高さ横幅共20cm程度で、H型をしている。これを横にして地面に置き、椅子または枕として使う。上下をつなぐ支えには皮で作った取っ手がついていて、持ち歩く時には棒や槍に通して持ち運べる、重宝な道具だ。ケニアのトゥルカナ族なども同じデザインの物を常用している。

 ひとしきり挨拶を終えるとアブタムはこの椅子に腰掛け、集落の重鎮と思しき数人と車座になる。僕らの訪問目的を話し、彼らの承諾を得ようという話し合いだ。僕らは木陰に佇み話し合いの成り行きを見守っていた。
 すると、話し合いの輪の外にいた数人の内から1人の中年男性がヒルットゥ女史の前に歩みより、女史の正面に向き合って立ち止まる。問いかけるように視線を向けた女史の反応に一切構わず、彼はいきなり右手で女史の左胸をわしづかみにした。
 驚きが大き過ぎると笑い出してしまうことがあるけれど、この時のヒルットゥ女史がそれだった。いきなり胸をわしづかみにされて小さな悲鳴を上げたけれど、あとは意味不明の笑いを浮かべながら1〜2歩後じさるだけで、相手の手を振りほどくことすら思いつけなかった様だ。
 一方、胸をつかんだ男は一つかみだけすると納得顔になり、何事か言いながら仲間の方へ戻って行く。
 小さな悲鳴に反応して顔を上げたアブタムに、女史は「これは一体何事か?」と尋ねたようだ。アブタムが胸つかみ男にボディ語で問い質し男が応えると、ボディの一座に笑いが起こった。アブタムが女史に通訳する。アムハラ語の分かる連中が、女史を含めて笑い出す。蚊帳の外に置いてきぼりは今や僕ら日本勢のみとなる。笑いながらヒルットゥが英語で説明してくれたところによると、話し合いに参加していなかった男たちの間に議論が起きたそうだ。ズボンを穿いて前開きのシャツを着ているヒルットゥは、いったい男であろうか、女であろうか、と。
 その確認に一同を代表して男が出向いてきた、というわけだった。
 ボディ女性なら始めから胸を露出しているし、ズボンなど男ですら穿いていない。他部族との交流の中でズボンを知ってはいても、ボディ族の行動半径にそれを着用する女性を見ることはまずないだろう。だから、考えてみれば、確認方法は想像外であったけれど、彼らがそういう疑問を持つのは当然と言えば当然だった。
 ヒルットゥの説明を日本語にして伝え、日本からの取材チームも笑いの仲間に入る。これで、その場に居合わせたボディ、アムハラ、日本の各人が笑いを共有して場が一気に和む。言語が違っても笑いは共通だ。僕らは、集落への訪問者として正式に認められ、取材を始めることができた。

Hirut ところで、胸をつかまれたヒルットゥ女史は、
前述の通り、エチオピア国営テレビ局のプロデューサー兼ディレクターだ。彼女は昨2001年、ボディ族の新年の祝いを自局のために取材しており、僕らの通訳を兼ね案内を買って出てくれた。これまでにも彼女はエチオピアの少数部族を10部族ほど番組にしており、これら知られざる人々の文化や現実を記録し放映することに、メディア人としての責任を感じ、誇りを持っていると言う。本当は局でしなければならない仕事があったのだが、「自分が取材した題材を外国プレスがどんな風に撮るか、とても興味深い」と、局の上司を無理矢理説得して同行してくれることになった。

 ちなみに、これまでにボディ族を放送用映像に収めたのは知られる限り彼女以外になく、国外からの取材としては僕らが初めてになると言う。

 
 僕らが取材したボディの放牧集落は、概ね以下のようである。

 まず、集落全体の敷地は目測で150m×100m位。
 その中に、長径30〜40mの長円形に囲った牛囲い兼住居敷地が7〜8戸分ある。各戸が茨のある生垣と切り枝を積み上げた垣根に囲われ、家畜を集める広場と3〜6軒の住居が建てられている。戸数を特定できないのは入り口を共有する垣根囲いが二つ連なっている所があり、これを一戸と数えるか二戸と数えるべきか、判断しかねるためだ。
 集落の構成人員は、成人した4人兄弟とその家族たちを中心に、この兄弟の年老いた父親とその妻たち(ボディは一夫多妻制)、父親の兄弟とその家族若干名がいる、らしい。これがはっきりしないのは、前述の通り、女性陣が運営する農耕集落というものが別にあることが主な理由だ。本当の農閑期以外、多くの女性が子ども共々農耕集落で生活しており、「この集落には何人の人が住んでいるか」という質問に明確に答えることができないためだ。
 それに、多くの男が、自分には何人の子どもがいるのか、数字で把握していない気配がある。複数の妻が複数の子どもを持っていることも理由の一つだろうが、元来が、数値に置き換えて量を計る、という習慣がないせいではなかろうか。今回の取材目的である彼らの優れた色彩感覚も、多分、この事と関係している。彼らは家畜の牛を頭数で把握せず、すべての個体をその色と模様で識別し、視覚で記憶するという。自分の子も、おそらく同じように認識しているのだ。顔を見れば自分の子と分かるけれど、全部で何人という認識はしていないのではないか。考えてみれば、これは確かに日常的には不必要な認識と言えなくもない。
 しかし、数値化することで認識を深める習慣のある僕らは、居住人口60〜70名と2〜3日後に判定した。これは、農耕集落の人口を除いた推測である。
EarlyMorning
   ※ボディ族 放牧集落の日常生活
  • 日の出前に乳搾り(子ども、若者たちの仕事)
  • 成人男子は作業を監視
  • 絞った乳を飲み、朝食。
    時には、牛の頚動脈から鮮血を採取し牛乳共々摂取
  • 放牧に出かける10時頃までの時間、乾燥した牛糞を小高に盛って火をつけ、立ち上る煙で牛たちを焙って虫除けとする。近場で放牧する子牛と遠出する牛を分けるなど、子どもと若者たちは牛の世話をする。
  • 女性たちは余った牛乳を沸かすなどして加工し、バターやギーを作る。余剰物を近くの村に売りに行く者もある。また、農耕集落から運んだ穀類があればこれを炒り、朝食として家族に配布する。
  • 成人男子たちは日陰に座ってこれらの作業を眺め、万事つつがなく進行していれば口出しも手出しもせず、コーヒーの葉を煎じた飲物などをすすっている。Calf
  • 午前10時頃 若者と年長の子どもたちが牛の放牧にでかける。草を食べさせながら5Kmほど離れた川を目指し、午後1〜2時頃の暑い時間には概ね川で水を飲ませるようにする。川沿いには家族の農耕集落もあるので場合によっては立ち寄って伝言など所用を済ませ、日没時間までには放牧集落へ戻る。
  • 集落に残った女性たちは日中、水汲み、薪拾い、牛糞と土をこね合わせて住居の修繕など、家事全般に従事する。
  • この間、父親たち成人男性は概ね木陰で休息しているか、近在の寄り合いなどに出かけて過ごす。
 取材の初日、放牧に出る牛を見送った父親たちが通訳のアブタムの所へ来て、自分たちは集会があるので出かけねばならない、と言ってきた。何の集会かと尋ねると、家畜の伝染病を防ぐために催す儀式の打ち合わせである、と言う。どんな儀式を行うのか重ねて尋ねると、家畜を連れて一同に介した場で雄牛一頭を屠り、伝染病の蔓延を招かぬよう神に祈るのだと言う。伝染病の兆しがあるので2〜3日中には実施しなければならない、とも言う。
 僕らが儀式の場に立ち会い撮影することは可能だろうかと尋ねると、集落の長と思しき精悍な顔立ちの男が、集会で話してみる、特に問題はないだろう、と答えてくれる。集会自体に同行させて貰えないかと尋ねてみたが、今日のところは遠慮するように、という答えがアブタムから返って来た。
 それを潮に、僕らも初日前半の取材を終えることにした。正午前の太陽が照りつけており、気温は40℃近くに上がっている。午後には彼らの農耕集落を訪問させて貰うことにして案内人をお願いし、カメラをしまってキャンプ地に戻る。

<キャンプ移転>
Campsite

 キャンプに戻ると、広がっていたヤシンのキッチン用品や椅子・テーブルがなくなっており、ヤシンの助手が僕らを待っていた。聞くと、昨日の雑木林の草木を刈ったからそちらへ移る。ヤシンは既にそちらへ行って僕らの昼食を用意している、と言う。新しいキャンプ地へ行ってみると、昨日は草と潅木に蔽われていた林が径20m程度の広場になっており、一隅の木の下でヤシンが料理をしている。僕らの姿を見てヤシンが手を止め、「村の者を雇って草木を刈って貰った。気持ちの良い場所なので、ここにテントを移そう」と言う。
 ヤシンがその根元をキッチンと定めた木の一方には僕らの食卓となる椅子とテーブルが並べられ、よく茂った枝葉が広く影を落としている。葉を茂らせた高い木が他にも何本か広場を囲んでおり、各自のテントを張るに充分な日陰もあった。
 一も二もなく全員移転に賛成し、荷物を運んでテントを移す。日陰が豊富なのが何よりだが、川にもずいぶん近くなった。僕らのキャンプにはシャワーがないので、汗を流す場はこの川だけだ。
 広場を囲むようにテントを設営し直すと、そこは、見るからに快適な野営地となった。
 ボディ族とのコンタクトもうまく行き、気持ちの良いキャンプも出きて、1週間の取材に専念できる体制が整った。
 昼食は、スパゲッティーとジンカで買った牛肉を使ったミートソース。冷蔵庫もないので生肉は夕食までに使い切ってしまわなければならない。それ以降の食料として鶏2羽も買ってあり、これは茂みの根方に長めの麻ひもで繋いである。こうしておけば逃げることもなく、虫などを勝手につついて生き延びていてくれる。
 周辺には放牧されている牛がたくさんいるのに食用肉は売っていない。ボディ族は、大切な資産である牛を食肉用に潰したり売ったりはしないのだ。食べる肉を得るために、僕らは近いうちにヤギを一頭買い込むことになるだろう。


Millet 午後、打ち合わせ通り案内人を拾って農耕集落へ出かけた。

 川べりでクルマを降り、ミレット(粟・キビ)がびっしり植えられた畑に入る。あぜ道のような物はなく、作物の間を縫うかすかな踏み跡をたどる。収穫期に達したミレットは2mを超える高さに育っており、一度畑に入ると見晴らしは全然きかない。前を行く人の背が作物の茎越しに見え隠れするだけで、深い藪をこいでいるようだった。
 <ミレットこぎ>をして進む耳に、時折「バシッ」という、鞭を鳴らすような音が聞こえてくる。それに、「コーン」と、木の幹を硬いものが打つような音が続くこともある。いずれにしても農作業に関わる音なのだろうけれど、鞭を鳴らすような音が出る作業というものを思い付けないのは、あながち自分が農業を知らないせいばかりではないだろう。
 ミレットこぎが突然に終わった。作物の切り倒された広い場所に出たのだ。
 そこに、謎の音の正体があった。十代半ばの少女が畑ぎわに作られた丸太組み、高さ2.5m程の台の上に立ち、縄を振り回している。と見る間に、二重にして持っていた縄の一端を放したのだろう。縄が伸び、挟まれていたこぶし大の石が勢いよく飛び出した。その時、放たれた縄の一端が反転して縄を打ち「バシッ」という、小気味良い音を立てる。放たれた石は数十メートル先の立ち木の幹を打ち「コーン」という乾いた音を立てる。すると、石の当たった木立から数羽の小鳥が飛び立った。――つまり、鳥追いだ。作物をついばみに来る野鳥を、こうして追い払っているのだった。
 地面では、切り倒した茎の先端にある穂を手早く摘み取る女性がいた。台上の鳥追い少女の母親と思しき年代だ。
 カメラマンが撮影を始める。
 と、摘み取り作業のお母さんが手を止め、ボディ語で何事か言う。強い口調だ。
 アブタムが、僕らのことを彼女に説明してくれる。
 彼女が答える。
 と、アブタムが僕らに向き直り、ヒルットゥを通じて「写真を撮るなら幾らかお金を払えと言っている」と説明する。
 午前中の放牧集落では撮影に対して金銭を要求されず、実のところ、意外に思っていた。まぁ、観光客も入らない地域だからそういうものかとも考えていたけれど、農耕集落の女性は違うのだった。
 考えてみれば、放牧集落で過ごす男たちは他部族の人々と交渉するようなことも余りなく、言ってみれば、自分たちの価値観だけで日常生活を送っている。
 しかし、女性陣には、牛乳や乳製品を持って市へ出かけることも生活の内にある。他部族の人々と物々交換や金銭を介しての商行為を行っており、金銭感覚が男性よりも発達するのは当然かも知れない。――それとも、女性には、洋の東西・文化の違いを問わず、そうした感覚が先天的に備わっているのだろうか???
 アブタムに「適切な謝礼を支払う用意はあるから」と伝え、金額交渉を行って貰う。
 首都を発つ前にヒルットゥ女史から「小額紙幣をたくさん用意しておきなさい」と言われていたのだ。銀行へ行き、まとまった額を小額紙幣で貰って来ていた。その紙幣を入れるために小ぶりのボシェットを買い求めなければならなかったが、それがバックパックの中に入っている。
 交渉が成立し、お母さんは摘み取り作業を、カメラマンは撮影を、それぞれに再開する。
 改めて川沿いの平地いっぱいに植えられたミレット畑を見回し、<粗放農業>という言葉を思い返す。ここの畑には畝がない。多分、焼き払った平地の石を取り除け、表土を軽く反した所にタネをばら撒いて行くのだろう。豊かな土壌はそれらの殆どを発芽させ、2m越えの高さになるまで育む。書いた通り、畑はびっしり作物に蔽われているのだが、作物同士の間隔は10cmほどしか空いていない。そんな密度で、雑穀とは言え穀物が育つのだから、土壌は余程豊かなのだろうか。農業の実務経験皆無だけれど、子どもの頃に見覚えた日本の麦畑や稲田の整然と実る様子との大きな違いに、しばし眺め入る。
 母親が摘み取ってザルにあけて置いたミレットを、また別の少女が植え込み奥から現れて運んで行く。カメラと共にそれを追ってミレット漕ぎをすると、草を編んだ小屋のある広場に出る。農耕集落に作られた小屋――農繁期の仮住居だ。
 ザルのミレットをムシロの上に広げ天日に晒す。充分に乾燥したら穂から細かな実だけをはずすのだと言う。GrindingMillet
 次に、乾燥して穂からはずした実だけの入ったザルを持ち、畑地の奥へ入って行く。後をついて行くと木の下に石三個を環状に並べた火床があり、もう一人別の少女が素焼きの壷で何やら煮込んでいる。
 ザルを火床から少し離れた所に置いた少女は、その中から一掴みの実を掬い取り傍らの使い込んで凹みの出来た平石の上に置く。同様に使い込んだ棒状の石を両手に持ち、平石上のミレットを磨り潰し始めた。地面に両膝をつき体重が無駄なく両腕に乗るよう四つん這いの姿勢で、力強く石と石をすり合わせて穀物を磨り潰す。
 そういう作業をこれまでに目撃したことがあっただろうか?
 作業する少女を目前に記憶を手繰っていたら、カイロのエジプト博物館で見た石像に思い至った。確か、こういう姿勢で粉を挽く女性の像があった筈だ。
 博物館の展示物にあるような作業を、この少女が今、目前で行っている。
 そう考えたら、この部族が持ち越している文化が内包する時間の膨大であることに気持ちを奪われ、胸の内がたじたじとなる。黙って少女の作業を見守るしかない。
 粉になったミレットを、火床番少女の隣で小高になっている粉に積み加える。
 火床番はそこから一掴みを壷に加え小枝でかき混ぜながら、隣で湯気を立てている小ぶりの壷を持ち上げてその温湯も加える。一家の夕食に、ミレットのお粥を煮ているのだった。
 人類が農耕を始めて1万年ほど経つという。
 ボディ族の人々がいつ、どの様にして農耕を始めたのか不明にして未知だけれど、古代エジプトの彫像にある手法を今も実践しているという事実が、胃の辺りに重く澱む気がした。



 翌日からの取材は放牧集落と農耕集落を交互に訪問する
形で、順調に進んだ。

 放牧集落では夜明け前の搾乳作業に始まり、牛の頚動脈からの採血、虫除け薫煙、子牛の区分け、放牧作業の実際などなど男たちの日常を撮り、僕らは初日に話のあった疫病防止の儀礼が実施される日を待っていた。初日の会合では「何色の雄牛を屠って供物とするべきか」で合意に達さず儀式の日取りがまとまらなかった、と言う。家長クラスの男性は連日この会合に出かけていた。

 農耕集落ではミレットの収穫作業に忙しい毎日だ。
 実った作物を小鳥の襲来から守るため、見張り台には小さな男の子まで動員され鳥追い投石器の小気味良い鞭音が、あちらこちらにこだましていた。
 ある日の午後、農作業の手を休めた女性たちが集まり、歌と踊りに一時を過ごした。
 楽器は何も使わず、皆の手拍子に合わせて唄いたい者が輪の中央に躍り出てソロをとる。唄の内容は即興であるらしい。内容に合わせて身振り手振りを付け加える者もあり、その様子と歌詞の内容に爆笑して手拍子が途切れてしまうことも度々あった。
SingDance  そこで唄われた歌詞の内容は、以下の様なものであった。

♪♪ わたしは黒い雄牛、赤い雄牛、白い雄牛を持っている
   夫の牛は黒と白、茶色、それに白
   わたしはなんて幸福なんでしょう
   牛たちがもっともっと増えるといいなぁ ♪♪

とか、

♪♪ 結婚の時、夫はわたしの親に牛を40頭持ってきた
   わたしのお陰で両親が豊かになって
   わたしはなんて幸福なんでしょう ♪♪

あるいは、

♪♪ 結婚して欲しい相手は他にいた
   でも、その人は充分な牛を持っていなくて
   わたしの親に牛を持ってこられなかった
   それでわたしは今の夫に貰われた ♪♪

などなど、ともかく、牛のことばかりを唄っていた。


 そして、今回取材のテーマ<色>である。

 上の歌にもある通り、ボディが自己確認のよすがとする<自分の色=アイデンティティー(ID)カラー>は、つまり、牛の色と模様――或いは、その組合せ。以降「色柄」と表記――に由来している。ボディは、これら色柄の組合せに呼び名を付け詳細に分類Cattleしているが、研究者の文献によれば、名前をつけられた色柄の組合せは実に200種を超えると言う。
 では、彼らはどの様にして自己確認のよすがとなる「IDカラー」を獲得するか。
 ボディ社会では、男の子が生まれると父親が手持ちの中から1頭の<雄牛>を選んでその子に与える。その雄牛の色柄が子どもの名となり、彼のIDカラーとして生涯関わるものとなる。
 生まれたのが女の子である場合、最初の牛を贈るのは母親の役目となり<雌牛>が贈られる。これの色柄が娘の名となり、生涯のIDカラーとなる。
 この後5〜7才くらいで「前歯を折る」という儀式があり、その際にも親から牛を贈られる。この時、男子なら今度は母親から雌牛を、女子は父親から雄牛を贈られる。これで雌雄が揃い、自分自身の家畜としての繁殖単位が出来上がる。後はひたすら、ボディ人生最大目標の一つ「家畜を増やす」という目的に向かって邁進することになる。
 この色柄の分類は詳細であり多岐にわたる。
 例えば、同じ「白と黒」の牛でも、白黒の出方、色付き部位の違いにより異なる名まえが付けられている。
 日本語では「ぶち」とか「まだら」、「とら」模様(――そんな牛はいないか)程度の分類になろうけれど、ボディでは、仮に「ぶち」と言えば、尻尾の付根から背にかかる部位、背瘤前の首から頭部、両目の上までが黒く、残りの部位が白いものだけが「ぶち」と言ばれる、と言うが如きだ。全体的に白黒の牛でも、それぞれの色の部位が異なればその色柄は異なる名で呼ばれる。
 また、茶系統の牛を日本でも「赤べこ」と呼んだりするが、この「茶色」系統も色調を細かく見分け、僕らの語彙では「茶」以外に「赤(真紅と淡紅に分別)」や「オレンジ色」「ピンク」「薄茶」――薄茶のある種は「黄色」――と分類され、認識される。
 黒や灰色も諧調を見分けて呼名が付いており、中には「紫」と認識される色合いの牛もいた。
 これは、紫色の鉢巻やネックレスを身に付けている人があるので自分の牛を指差して貰い、普通の感覚では白地に黒点のぶち模様と思うのだが、何日か彼らと過ごす内、僕らの目にもこれは紫色の牛と映るようになって来るのが、なんとも不思議であった。
 他にも、グレーのある諧調はハッキリ「青色」と見えてきて、牛の持ち主は当然青い飾りものを身に着けているのだった。
 滞在期間が1週間と短く、これ専門の研究に行ったわけではない哀しさ故、色柄名の詳細データをここにご提供できないのが残念である。次回訪問の課題としたい。

Ornament しかし、ボディの人々が<自分の色>に深いこだわりを持っていることは、ロケ中の随所で実感できた。
 例えば、日本から来た取材ディレクターは、帽子代わりに白いタオルを頭に巻いて集落の取材を行っていた。すると、自分の身に着けているIDカラーのアクセサリーとタオルを交互に指差し「ほら、この通りこれは自分の色だから、そのタオルは自分にくれ」と言ってくる者がのっけから現れた。面白いのは、白をIDカラーにしていない者からは「タオルをくれ」という申し出がひとつもなかった事実だ。
 「タオルをくれ」とつきまとわれるのに閉口したディレクターは通訳を呼び、「取材が終わったらタオルは必ず置いて行くので、それまで待っていてくれ」と、タオル希望の面々に通達を出した。それから取材が終わるまでタオルをくれと言ってくる人はなくなり、約束通り最終日にタオルを差し出したディレクターに、貰った者は焼トウモロコシを返礼として渡していた。
 「くれ」と言われたのはディレクターのタオルばかりではもちろんない。
 帽子、Tシャツ、プルオーバー、バンダナ、キーホルダーなどなど、ともかく「くれ」と言われるので確かめると、それと同じ色の物をどこかに身につけている人だ。<物そのもの>が欲しいというのではなく、<IDカラーの物>を欲しているのだった。

 また、取材用の小道具として日本から色見本帳-199色-という物を持参していた。これから自分の色を選び、色の名をボディ語で発音して貰う、というシーンを撮るためだった。
 実際にやってみるとこちらの思惑通りにはなかなか行かず、シーンとしてうまく成立したかどうか疑問だったけれど、たくさんの色の中から「自分の色を選べ」と言われて見本帳を繰る手付き・目付きに表情があった。赤なら赤の、明度彩度の異なる色見本がいくつか連続して綴じられているのだが、その中から<自分の色>に合致する物を慎重に吟味しているのが、傍から見ていてもはっきりと感じられた。色選びをしている本人ばかりでなく、周りにたむろしている面々からも、ああでもないこうでもないという発言が活発に出、手も出てページを捲くったりする。それで、このシーンの撮影は余りうまく行かなかったところがある。
 それほどに、彼らは色に対して敏感に反応するのだった。


YellowStone <黄色い顔料>

 放牧集落の若者が鼻を中心に黄色く塗っているのを見て、顔料はどうして入手するのか不思議に思った。
 ケニアでお馴染みのマサイ族が使用する赤い顔料は「酸化鉄」含有量の高い岩石から得る。これが露出している場所は部族内でよく知られており、必要な者が出かけて行って必要なだけ取って来る。ナイロビ近郊ではその岩石も取り尽くされて遠出しないと入手できない、と知り合いのマサイは嘆いている。
 しかし、黄色。
 黄色い顔料をボディの人々はどうして入手するのか?
 尋ねると、「すぐそこにある」という答えが返ってきた。案内して貰うことにする。
 集落をクルマで出て10分ほど走る。案内の青年はクルマに乗るのが初めてだと言った。
 石の転がる干上がった川底を抜けて急な坂道を上がった。青年が、クルマを停めろ、と通訳者に言う。道端から右手に20mほど入ったところに小高い崖が切り立ち、連なっている。
 「あそこを登るのか」と、マサイの酸化鉄のある山を連想して少し億劫になった。カンカン照りの正午前、気温は40℃に近い。撮影機材もある。
 通訳者に続いて降り立った青年が崖方向に道を横切る。観念して僕もクルマから降りると、青年は目の前の路傍にしゃがみ込んでいる。
 「???」
 「これが、黄色の石だ」
 通訳者の口を通して青年が示す。道端に転がっているカボチャほどの大きさの石。見たところ、他に幾つも転がっている石と見分けもつかない。
 「これが、黄色の素?」
 僕ら全員の顔に不可解の表情が出ていたのだろう。青年は石の傍らに落ちていた――実は置いてあったことが後で分かる――こぶし大の石を拾い、カボチャ大の石表面を強く擦り始めた。比較的柔らかいのだろう、カボチャ石の表面が粉末状にこそげ取られる。石を置き、青年は粉末を指に付けて自分の二の腕をスーッとなぞった。黄色い二本線が鮮やかに描かれる。
 なるほど、と納得して周りを見回すと崖の対面、緩い勾配の下り上りを挟んで、出てきた集落がそこに見えている。クルマでは迂回と悪路が重なって時間がかかったけれど、歩けば集落から直線で2Kmと離れていない。事実、大きな素焼きのツボを頭に載せて、十代後半の少女2人が集落から水汲みに歩いてくるところだった。
 「こんなに近いし、石だって大きくないのに、なんで石を家へ持ち帰らないんだ」と、思わず尋ねる。1度だけ重たい思いをして運んでしまえば、たびたび使う顔料なのだから、その都度歩く手間が省けるではないかと、遠い国からきた余所者は勝手に考えてそう尋ねる。
 通訳者2人を介して戻ってきた答えに、余所者はしばし恥じ入ることとなる。
 「そんなことをしたら、通りすがりに利用する他の人々が困るではないか」
 先ほど渡った涸れ川の残り水を求めてやって来るのは、何も彼らの集落の人間ばかりではなかった。近隣の複数の集落の人々にとって日常的に必要な水場だ。そこへの行き帰りにこの石を削り、黄色いお化粧を施す人が何人もいたのだ。だから、カボチャ石の傍らには使い込まれた手頃な石が置いてあった。あれは、偶然そこに落ちていたのものではなかったのだ。
 いや、不明であった。想像力が不足していた。資本主義社会に生まれ育った日本人なので、有用物は所有するものと自然に考えてしまった。――
 ボディ族は、そのようにして自然な相互扶助社会を長きに渡って営んできたのだと、改めて知った。その様にしなければ生きられなかったことも事実だろうが、様々な物を個人が所有して何になるか?という基本的な概念がある。その最たるものが土地。土地は必要な者が必要なだけ利用するが、これが誰か個人の所有物となる、という考えは、一切、ない。
 川べりの耕作地にしても、放牧集落が日照りなどで立ち行かなくなれば、放棄して移動してしまうと言う。行った先でまた野を焼き林を切り拓いて耕作地を作ればよい、と考えるのだ。その様にして、この人々は数十、数百と言う世代を重ねてきた。
 多くの男たちが持ち歩いているライフル銃に辛うじて20世紀が反映されているけれど、粉引きの手法に見る通り、この人々は近代化という外圧から遠く離れた所に住み続けている。近代化と隔絶して一部族が昔ながらの暮らしを継続できる場所――そんな場所が、アフリカ大陸以外のどこか他に残っているだろうか。

 エチオピアTVのヒルットゥ女史は、
同じエチオピア国民としてボディの人々が近代化されること――欧米諸国のような<過度な近代化>は不要だけれど、少なくとも自分が享受している程度の近代化はなされるべきだ、と言った。自分の番組作りの動機も方向も、こうした人々の生活向上に貢献するようなものでありたい、とも言っていた。

 もちろん、その考えは正しく健全だ。否やのあろう筈もない。
UnderTheTree
 けれど、放牧集落の大きな木の下、皆が寛いで思い思いに過ごしている午後の時間。
 僕らも撮影を休止して根方に腰掛け休んでいる。ロケも後半に入り、成功裏に撤収する目途もついていた。気温は高いけれど、乾燥した風がゆるゆると吹きつける木陰は心地良い。視線を上げれば、人工物を一つも含まない風景がたおやかな起伏に沿い、強い日差しに照らされて、見晴らす限り広がっている。
 「ヒルットゥ」 隣に腰掛け僕同様に放心しているヒルットゥに唐突に尋ねてみる。「局に戻ってデスクや編集室に座り込んで過ごす午後と、今のこの木の下に流れる午後の時間と較べて、本当にアディスの局にいる方が良いと思うかい?」
 一瞬の間を置いてヒルットゥは大声で笑い、
 「まったくよね。わたしは、こういう自然の中にいると気持ちが落ち着くわ。お母さんのいる実家――アディスアベバから60Kmくらい東に行った所だけど、大きな湖の近くで乳牛を少し飼っているのよ。そこへ行って搾りたての新鮮な牛乳を飲み干した朝には、そうね、首都の暮らしよりはそこの暮らしの方が気持ち良いものとつくづく思うわ。
 「でも、そこにいても仕事がないわ。ましてや、放送業務に携わる機会なんて皆無よね。生活して行けないわ。首都で暮らすのも、だから、仕方のないことよ」
 「――確かに、ね。僕にしたって、牛の飼い方も畑の耕し方も知らないからね。町で暮らすしかないんだ。まったく、僕らは――、このCivilizationという奴は、一体いつ、どこで大きなしくじりをやらかしてしまったんだろう。そうは思わないかい?」
 問われてヒルットゥは、日本人の埒もない繰り言に曖昧な微笑で応えるだけだった。
CloudySky

<疫病防止の儀式・延期>

 会合を重ねて屠るべき牛の色柄は決まったが、大チーフが「儀式は満月の夜に執り行うべし」と決定し、僕らの滞在期間中には実行されないことが決まった。折角の儀式だから同席したかったけれど、放映日が決まっているロケなので滞在延長もままならない。残念だけれども仕方がない。
 頃合い良くなのか何なのか、ちょうど天気の変わり目にさし掛ってもいるらしい。
 快晴続きだった空に高層のうろこ雲が湧きだし、夜間には遥か彼方に雷の閃光がまたたく。雨が近いのだ。大量の雨に降られたら、僕らの帰路は塞がれてしまう。四輪駆動車でも通れそうにない場所が、ジンカまでの間に幾つもあった。
 取材は終わりだ。

 キャンプを片付け、荷造りをしてクルマに積み込む。
 村に寄って様々な支払いを済ませ、挨拶回りをする。村の広場を通りかかると、取材させて貰った集落の女性が2人、乳製品を並べて木の下に座っているのが見えた。限られた人口のこの村で、一体どれだけ売れるのだろう?
 そのそばを通過しながら「さようなら」というつもりでクルマの座席から手を振った。
 手を振りながら、<さようなら>をボディ語で何と言うのか、尋ねなかった自分の迂闊に気が付いた。取って返して通訳のアブタムに尋ねてみたい衝動に駆られたけれど、ドライバーはお構いなしに街道へ続くコーナーを勢いよく曲がってしまった。



 <エジプト博物館の展示品>

 旅を終えてナイロビの自宅に戻り、気に掛っていたことを確かめようとエジプト博物館の収蔵品カタログを開いて見る。ページを繰って間もなく、その図版を見つけた。
 女性が膝をついて粉を挽いている石像――解説は以下の通りだ。
JE87818
STATUETTE OF A WOMAN GRINDING GRAIN
Painted Limestone; Height 32cm.
Necropolis of Gizza
Fifth Dynasty (2465 - 2323 B.C.)

JE87818(参照番号)
<粉を挽く女性の小像>
石灰石に彩色。 高さ32cm
ギザ「ネクロポリス」出土
第五王朝(紀元前2465〜2323年)
 ボディ族の少女は、4000年以上前と同じ方法で今日も穀物を粉にしていることになる。
MasaiBeads

古代を生きる人々
エチオピア<ボディ族>訪問記

目  次

#エチオピア南西部オモ川中流域に住む<ボディ族>の村を訪ねた。
#言語的にはナイル・サハラ語族 東スーダン語派 スルマ系
#黄色のボディ青年とすれ違ってまもなく、目的の村に着いた。
#翌朝、ジンカから付き添ってきた観光省のマモ氏が……
#ボディ族と付き合いの長いアブタムは、
#ところで、胸をつかまれたヒルットゥ女史は、
#僕らが取材したボディの放牧集落は、概ね以下のようである。
#ボディ族 放牧集落の日常生活
#<キャンプ移転>
#午後、打ち合わせ通り農耕集落へ出かけた。
#翌日からの取材は放牧集落と農耕集落を交互に訪問する
#そして、今回取材のテーマ<色>である。
#<黄色い顔料>
#エチオピアTVのヒルットゥ女史は、
#<疫病防止の儀式・延期>
#<エジプト博物館の展示品>

アフリカ徒然草
 目 次

<ジャンプ・スイッチ>

筆者口上

@余命6ヶ月と宣告されてケニアにやって来た老ドイツ人に出会った

Aママ・ンギナ・ストリートのコーヒーハウス
Bエチオピア<ボディ族>訪問記 「古代に生きる人々」(表示中)

C<ンゴマについて>異聞

D<マハレとタンガニーカ湖 Since 1985> (未完)

Eジュアールティー 〜遠いアフリカ〜

F巨人伝説 〜南アフリカ〜

G地球史カレンダー

Hアフリカに育つ息子たちへ

I稼いでは遊び、遊んでは稼ぎ

J水深5メートルの退職金

Kケニアで最初にルビーを掘り当てたのは日本人




サファリの手帖  <アフリカ徒然草B> [Top Pageに戻る]
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