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アフリカ徒然草 D

森と湖とチンパンジー 「マハレ山塊


タンザニア西端、タンガニーカ湖畔。
通い続けたこの場所で「アフリカは完結した系=小宇宙=なのだ!」と、思い知った。
=目次=
初めて訪れたのは1985年
タンガニーカ湖
マハレのチンパンジー研究
チンパンジーの知力
森の賢者:ラマザニさんのこと
 マハレを初めて訪れたのは、国立公園に指定される前の1985年4月。野生チンパンジーの調査・研究を行う日本人研究者一家のドキュメンタリー番組を作るのが目的だった。
 当時、京都大学を中心とする研究チームはまだ“餌付け”という方法を使って野生チンパンジーの観察を行っており、山へ入る時にはいつも長いサトウキビを何本か携行していた。観察路をたどり、群が近いと思しき所まで来るとサトウキビを刃渡り50cm程の蛮刀“パンガ”でガシャガシャと叩く。蛮刀が鳴って出る高周波音は樹林帯を縫って遠くまで届くのだろう。聞きつけたチンパンジーたちはサトウキビを求めてじきに我々の所にやって来る。輪切りにしたサトウキビを適当に投げ与えながら彼らの様子を観察する。それだけでも各個体の順位や性質(性格)などが見えてきて興味深かった。が、サトウキビで築かれた友好関係はしばらくの間は有効らしく、手持ちのサトウキビがなくなったと見てとった彼らは移動を始め、我々がその後を追っても逃げるような素振りは見せず、我々の存在を無視して移動し行動をするようになる。この自然行動の観察こそが餌付けという方法から得られる最大の収穫だ。
 国立公園に指定されるのと前後して研究チームは餌付けをやめたが、既に人に慣れ、人を「危険のない存在」と理解するようになった群れは、餌付けをやめても観察者を怖れることはなくなった。

 '85年当時は国立公園に指定される前なので観光施設など何もなく、京都大学の研究施設の一部を拝借して宿舎とした。
 交通手段も最寄りの街「キゴマ」――最寄りと言っても130Km余ある――からボートをチャーターし湖上12時間余の船旅である。滞在期間中に必要な食料やガソリンなどもキゴマから同じボートに載せて運ばなければならない。結構膨大な荷物になり、60馬力程度の船外機を取り付けた木造船は、出したくてもスピードを出せる状態ではなかった。
 また、国立公園に指定されていなかったので、湖沿いの平地には地元トングウェ族の人々が焼畑をしながら暮らしていた。トングウェの男たちは狩人でもあり、マハレの山々に入ってレイヨウ類やホロホロチョウを狩り、動物性蛋白源としていた。山の様々な恵はこの部族内で代々語り継がれており、薬草や食用植物の分布を詳細に把握している人物が少なからずいた。日本の研究者たちもこうした人々の知識と知恵を調査活動に取り入れ、日本の「サル学」の深化はこの人々から掛け替えのない貢献を得たものと思う。
 '87年国立公園に指定されると一般人の居住は制限され、トングウェの人々の多くは国立公園局の用意した代替地へ移り住んだ。
 しかし、京大チームを支えてきた人々のある者は国立公園職員として雇用され、別の何人かは「リサーチ・センター」の職員として雇われることで公園内の居住が許された。が、勿論、畑作などはできなくなった。
 そんなマハレの変遷を通い続け見続けて来た自分には、この地域、湖とそこのチンパンジーたち、そしてトングウェの人々に特別な思い入れが生じているかも知れない。 けれど、そういう無意識下のバイアスを抜きにしても、マハレは非常に特殊な場所だと思う。

 まず、タンガニーカ湖
 東西40〜50Km南北650Kmに細長くのびるタンガニーカ湖は、水深1470メートル。世界第2の深度をもつ淡水湖である。「地球の裂け目」と呼ばれるアフリカ大地溝帯の一部をなすが、地溝帯内の湖はほとんどがソーダ性で、タンガニーカ湖の様な淡水湖は稀である。しかも、その水はクリスタル・クリアーと表する言葉通り、まったく濁りのないものだ。
 初めてのマハレ訪問の時キゴマでの資材調達に手間取り、長逗留を余儀なくされた。確か、ガソリンが備蓄場にもなくなり、週2便しかない列車で運ばれてくるのを待っていた、と記憶する。
 ガソリンの到着を待っているだけの4人の日本人を見かねて、タンザニア人リサーチャーの1人がキゴマに住むスウェーデン人技術者たちに紹介してくれた。ちょうど週末にかかっており、クルマで30分ほど行った所の水辺に彼らが遊びに行くので一緒に、と誘ってくれたのだ。
 そのスウェーデン人たちは国際協力でキゴマの上水道整備のため長期滞在しており、様々な資材と共にウィンド・サーフィンを2台持ち込んでいた。それを使ってタンガニーカ湖で遊ぼう、と言うのだ。一も二もなく誘いに飛びつきタンガニーカ湖で楽しく午後を過ごしたけれど、その技術者の中に水質検査の専門家がいた。上水道の水源はどうするのか、という僕の問いに彼の答えて曰く。
「上水道の水源には勿論このタンガニーカ湖の水を使う。岸辺でポンプアップして浄水施設で処理をする。――けれどもね、My friend、もしも沖合400メートルから取水できれば、この湖の水はそのまま水道管に流せるほど清潔な水なのだよ。浄水場で薬品処理するより、余程クリーンな水かも知れない」
 アフリカに来て2年半。この大陸にそんな清水を湛える巨大湖があることを知らなかった。地溝帯内の湖はどれもソーダ性で、淡水湖はナイロビにほど近いナイバシャ湖だけとばかり思っていた。不勉強極まりない。
 水道管に流せるほどきれいな水が650Km×40Km×1.4Kmの器に満たされている――、一体、どんな生物がその水に潜んでいるのか?
 余談だけれど、この疑問をきっかけに翌年から3年間、この湖の水中撮影を繰り返した。そして、シクリッド(カワスズメ科)という魚群を中心に生物進化の過程を実見するような、豊かな生物相がこの湖に満ちあふれていることを知った。
 シクリッドは学術的に興味深いばかりでなく観賞用熱帯魚としても広く愛されており、日本と欧米諸国には安定した市場がある、という事もこの時はじめて知った。潜って見ればそれも一目瞭然で、様々な形態の色鮮やかな魚たちが群れ泳いでいる。
 ナイルパーチ(淡水産スズキの一種)を始め食用魚も豊富で、湖岸沿いに住む人々には重要な蛋白源・収入源となっている。
 シクリッドの仲間では世界最大(体長50〜60cm)になる「クーへ」と呼ばれる魚があるが、これなど日本からの代々のチンパンジー研究者たちが刺身で食し、単調な食生活の続く調査滞在に楽しみをもたらしてくれている。これも、寄生虫などが極端に少ないタンガニーカ湖ならではのことだろう。
 個人的には、淡水産のイワシ「ダガー」が印象深い。
 水中撮影の基地として湖の北端ブルンディの首都「ブジュンブラ」に滞在した時、現地在住のベルギー人「ピエール・ブリチャード氏」にアドバイザーをお願いした。このブリチャード氏こそが、タンガニーカ湖のシクリッドを観賞魚として世界に広めた張本人であるとも言える。ポピュラーな一種「ランプロローガス・ブリシャルディー」以下、彼の名や彼の娘さんの名を学名に冠した種が多くあるのを見ても分かる通り、タンガニーカ湖の魚類・生物研究では当時第一人者であった。また、捕獲した野生種をご自身で養殖、世界各国に観賞魚として輸出するビジネスも、ブリチャード氏が始められたのではなかったか。
 取材実施に先立ち番組監修のお願いに初めて伺った時、打ち合わせを終えた僕らを夕刻のヨットクラブに案内して下さった。
 クラブハウスには夕陽にそまる湖を見晴らすデッキが設えられ、そろそろ陸に上がろうかという風情のカバが数頭、デッキでビールを飲む僕らを見つめていた。
 このビールのアテに供された「ダガー」の空揚げが絶品だった。
 生のダガーを空揚げにして塩とパプリカをからめてあるだけなのだが、熱々のこれにテーブルでレモンを絞りかけて口に放り込み、冷えたビールをグビグビやる――グラスをあおって上がった視線が20m先のカバのそれと真っ直ぐかち合う。
 そんな環境が良かったせいかも知れないけれど、これは本当に美味かった。 ちょうど、冬場のワカサギのような具合だ。
 初めて食べたこの時には、だからダガーはワカサギと同種、キュウリウオの仲間であろうかと考えた。けれども、実際にはイワシの仲間だった。内陸の湖にイワシ――これは、タンガニーカ湖が遥か彼方の過去の時間、南東に伸びるマラウィ湖を介して大洋と繋がっていたことを示唆しているのではなかろうか。ダガー以外にもサバそっくりのムケケなど、海の魚が陸封されたとしか思えない魚類がいくつも棲息しているのだ。
 
 <マハレのチンパンジー研究>
 前項で触れたブジュンブラから南下すること約330Kmの東岸に、2千メートル級の峰を連ねる「マハレ山塊」がある。地図を見ると山塊部分が湖に大きく張り出し、出ベソのように見える場所だ。
 この山塊と湖の間に広がる標高千メートル内外の森に、マハレのチンパンジーたちが暮らしている。いったい、いつからそこに暮らしているのか――少なくとも、人類が発生するずっと以前からこの森に暮らしていたのだろう。
 観光客が至近距離で観察できる群れは研究者グループによって<Mグループ>と呼ばれ、現在、50頭程度が一群れとなっている。生後間もない赤ん坊を除いてほぼ全ての個体が名まえによって識別され、グループ内で生まれたものに付いては母子関係、出生時期などが記録されている。
 野生チンパンジーではオスが群れに残り、メスが群れを出て近親婚を避けるのが原則である。
 が、'90年代後半にMグループのオトナ・オスが大挙して群れから姿を消す、という事件があった。数年間に渡ってアルファメール(いわゆる“ボス”)の地位を争う戦いがオトナ・オスの間で続いていたが、その頃、身体が大きく力も強いが統率力では少々劣る、と見られていた個体がボスの座に居座っていた。
 この争いが起きるまでの16年間、Mグループでは1頭のアルファメール<ントロギ>が長期政権を維持していた。知られる限り、野生チンパンジーでこれだけの長期政権を維持した記録はどこにもない。
 そもそも、チンパンジーがアルファメールを頂点に群れをなし、社会生活を営んでいることが事実として国際的に認知されるに至ったのは、このマハレでの日本人研究者たちの調査データ・研究論文によってである。
 同じタンガニーカ湖畔、キゴマから北に行った所には「ゴンベ・ストリーム国立公園」があり、著名な環境保護活動家「ジェーン・グドール」女史のチンパンジー研究施設として知られているが、女史の研究テーマは当初まったく異なるベクトルにあったようで、チンパンジーの社会生活に関する言及などはその著作には見られない。逆に、少しだけ後発であった日本チームが次々と発表する新データなどを批判的に眺めていたような節もある。
 しかし、詳細な観察の結果発表される日本チームの具体的データと研究論文は説得力に富み、欧米の霊長類研究者にも続々と受け入れられるようになる。――だから、野生チンパンジーの生態行動に関する現在の常識は、このマハレでの日本チームによる調査・研究の成果以外の何ものでもない、と言っても過言ではないかも知れない。
 
 しかし、野生チンパンジー観察の草創期に思いを馳せると、必要とされる作業の多岐にわたることとその量に、内心たじたじとならざるをえない。
 まず、調査地の選定。
 '60年代半ばには現在よりも多くのチンパンジーが更に広範囲に棲息していたに違いない。今になってみれば、増大する人口とそれに伴う人口分布変化、生活圏拡大パターンから「マハレを選んでおいてくれて良かった!」と簡単に言えるけれど、37年前の時点で何を根拠にマハレを選べたのか?
 調査地に最初に入り込む人は必ず地元の人々の協力を仰ぐ必要があったはずだ。そのためには、最低限「スワヒリ語」を覚えなければならなかっただろう。
 チンパンジーが定期的に出没する地域を特定するために人に尋ね、森を歩き、待ち伏せて――当面の滞在場所を特定するだけでも大変な作業量だ。こうしたことをこつこつと確実にやってこられた草創期の研究者の皆さんの努力と情熱には、ただただ脱帽するしかない。
 
 それに、チンパンジーを調査・研究するということ自体、当時の現地の人々には想像の埒外であったに違いなく、その上で彼らの協力を取り付けなければならないのだ。
 事実、マハレ研究のパイオニアである京都大学の西田利貞教授が大学院生として調査に入った'65年当初、住民のトングウェ族の人々は「調査・研究」の意味するところがまったく分からず、サトウキビなど価値ある食べ物をチンパンジーに配って手なずけようとする日本人を心底奇妙な人と考えた、と言う。チンパンジーを手なずけて食べるのだろうか?などと長老たちが話し合っていたと、西田教授の片腕として草創期から貴重な働きを続けるラマザニ・ニョンドーさんから聞かされたことがある。
 しかし、マハレを調査地としたことの最大の僥倖は、そこがトングウェ族の土地であった、という事実ではなかろうか。
 何回もの取材行で様々な場に居合わせ、いろいろな話を聞く機会に恵まれたけれど、そういう中で印象的なことの一つに、トングウェの人々がチンパンジーを野生動物と人との中間に位置する生き物、と捉えていることが上げられる。前述した通り、トングウェ族は森の動物を食料として狩るが、チンパンジーはその対象に入っていない。もちろん人ではないけれど、レイヨウ類やホロホロチョウとは明らかに異なる、人に近い存在――彼らはチンパンジーを代々そう考えてきたと言う。
 タンガニーカ湖を西に渡るとコンゴ民主共和国(旧ザイール)だが、この地の多くの部族はチンパンジーやゴリラなどを、食べるために狩る。「他に食べるものがないから仕方なく食べている」と言う意見もあるけれど、「いやいや、美味なので食べている」と言うザイール人に会ったこともある。ともかく、マハレがそういう人々とは異なるトングウェ族の居住域であったことは、チンパンジーにとっても研究者にとっても、また今、観光で訪れるすべての人にとっても、大変に幸運であったと言えるのではなかろうか。

 <チンパンジーたち>
 マハレに通うこと足掛け十数年――1度の滞在が2週間から数週間単位だから、通算したら1年間に匹敵するくらいの夜をマハレで眠ったことになる。それだけの期間、日中はチンパンジーの後をついて歩き、夕方にはタンガニーカ湖で汗を流す日々を重ねた。これぐらい過ごしていると「門前の小僧」ではないけれど、迂闊な僕でもさすがにチンパンジーについて随分たくさんのことを学ばせてもらえる。
 
  1. ボスのオトナ・オス(アルファ・メール)が群れを率いていること
  2. ボス以下、2位、3位、4位……と、オトナ・オスに明確な順位があること
  3. 多くのオスにとり上位者を押しのけて自分の順位を上げて行くことは、人生(猿生?)の大切な目標であること
  4. であるものの、順位争いに関心を示さず、ひたすらマイペースで生きる個体も偶にはいること
  5. メスにも順位が歴然とあること
  6. 若オスが順位争いに目覚めるとオトナ・メスに攻撃を仕掛け、メスグループを屈服させることにまず腐心すること
  7. 地面や反響性の高い物体を叩くなどしてより大きな音を出すことのできる者がより偉い、と認められるらしいこと
  8. 順位の維持・向上のためにはなかなか複雑な政治的駆け引きも行うこと
  9. イボイノシシやアカオザルの子どもなどをハントして肉食すること、肉は大好物であること
  10. 子殺しをすることがあること。場合によっては、殺した子どもをオトナ・オスが食べてしまうこともある
  11. 虫下しや腹痛止めに効果のある「薬草」を経験的に知っているらしいこと
  12. 彼らには確かに知能があり、知能の優劣に個体差が顕著であること。 等々々々・・・
 1.から11.までの生態学的に興味深いことがらに付いては西田教授の著作をお読みいただくなり、継続取材を続けるテレビ番組(動物奇想天外)を観ていただくことにして、ここでは<知能あるチンパンジー>の行動について記させて戴く。
 
 数日続けて低地部の食物を食べ歩いていたチンプたちが、高地部の食物を食べようと長距離移動にかかったことがある。
 こういう“指示”を出すのがアルファ・メールの役目だが、その日のどの行動・発声がその指示であったのか、僕には皆目分からない。ともかく、歩いては食べ、食べては歩き、合間に仲間との遊びや力比べをしてゆるゆる遊動するのと異なり、ある時点からはっきりと“目的を持った移動”に群れの動きが変わった。ザーッと降った通り雨がきっかけであったような気もする。
 こうなると追いかける人間の方は大変で、研究者の皆さんは慣れた足つきで藪をこぎ斜面を直登・直降、ある時は這いずってでも藪を抜けチンパンジーの直後を追うけれど、撮影機材を持った我々はそうも行かない。観察路沿いに大回りをして、チンプの移動に遅れをとらないように急ぎ足で回り込む。アップ・ダウンこそあれ直線的に移動する彼らと、大迂回を余儀なくされる我々とでは常識的には勝負にならない。けれど、チンパンジーの移動というのもファジーなもので、藪の中に実りの良い果物を見つければそこでちょっと寄り道をして、道草ならぬ道果実を食ってくれたりすることもある。その間にこちらが追いつけることもあるわけだ。
 その時の移動でもさほど離されることもなく、観察路を横切る水路の所で谷側の藪から上がってくるチンプの集団と一緒になった。水路と言っても常に流れているわけではなく、大雨が降った時にだけ流れができる涸れ沢と言うか、流れに観察路の一部が削られた場所、というようなところだ。沢の底には土が目立ち、半ば埋まった大小の石が見えている。
 僕らの出会った先頭集団は観察路を横切る平らな底部に至ると立ち止り、川底にいくつもある小さな窪みに溜まった通り雨の残り水を啜り始めた。母親の背中に乗って移動していた子どもも地面に降り、窪みの水に口をつけて啜る。ひとしきり啜り、山側の獣道を直登して移動を続ける。谷側から次々に上がってくるチンプがそれぞれに水を啜るのだが、前を行く者が啜った窪みは泥が舞い上がって濁ってしまう。濁った水をチンプは嫌い、誰も口をつけていない窪みに溜まった澄んだ水だけを啜って行く。
 ひとしきりそうした一団が過ぎた後、群れから少し距離をおいて移動するオトナ・オス<トシボー>が水場にたどり着いた。その時点でボスに次ぐ第2位の立場にあったように記憶するが、アルファ・メールと折り合いの良くないトシボーは、移動の時にもボスとある距離を保っていることが多い。身体の大きさではボスに敵わないけれど、知力ではトシボーの方が1枚も2枚も上であるというのが、日本人研究者を始めトングウェ族トラッカーの間でも定説になっていた。
 そのトシボーも水を飲もうと見回すが、先行集団に荒らされた後でどの窪みも空っぽか、水が濁ってしまっている。
 「どうするだろう?」と僕らが見守っていると、トシボーは半ば埋まった石のあれこれを握ってみている。掌をいっぱいに広げて掴めるギリギリ位の大きさの石を選んでは握り、よく見ると握って左右に揺すってみてもいる。
 いくつかを試すと埋まり方のゆるい物に行き当たった。トシボーはその石を前後左右にゆっくり揺すり、地面から引き抜くようにして横に置いた。石の埋まっていた空間が窪みになる。その窪みにじわじわと水が滲み出してくる――トシボーはじっと待ち、ほどよく水が上がったところで口をつけ、澄んだその水を飲み干したのだ。
 トシボーのこの行動には明らかに<想像力>が関与している。原因を作れば結果が得られる、という思考がある。それ以前に、川底に穴を穿てば水が――濁りのないきれいな水が滲み出して来るものだ、という知識がある。
 水を飲み干したトシボーが去って行く――その一部始終をカメラに収めてカメラマン、ディレクターと顔を見合わせる。
 「こんなこっとって、あるだろうか?」
 人間が同じ状況で澄んだ水を欲したとして、一体、何歳の子どもならトシボーと同じ方法を思い付けるだろうか? いや、自分自身、トシボーの手法を独自に考え付くことができるだろうか?
 もちろん、トシボーは親や群れの誰か別の個体からこの方法を学んだ可能性がある。けれど、人間がトシボーやその先達に教えたわけはないから、いずれにせよこれはチンパンジー自身が開発した水の取得方法だ。
 しかし、この時ご一緒した京大の西田先生ですら、30年以上のチンパンジー観察で初めて目にする行動である、と仰った。
 だとすると、トシボーが独自に編み出した方法である可能性も完全には否定できない。
 ――独自に発案したのだとしたら……?

 トシボーが「知恵者」であることに関するエピソードは他にもある。
 チンパンジーは機会さえあれば他の哺乳動物を襲ってその肉を食べる。アカオザルというオナガザルの仲間が餌食の筆頭格だが、他にもダイカーという小型のレイヨウ、イボイノシシの子どもなどを食べるために捕まえる。この高タンパク・高カロリーの食物は彼らの大好物と言えるもので、肉を分捕り損ねた個体は持てる者にすり寄り、分け前を貰うために挨拶行動を繰り返したり、隙を見てかっさらったり、肉獲得のためには実に様々の行動に出る。逆に、持てる者はこれを最大限に利用する。上位の者や発情メスに分け与えてご機嫌を取り結ぶし、下位の者でも自分の味方につけておきたい者には分け前を与え、ライバル関係の濃い個体には金輪際分け与えないなど、情実と政策の錯綜した複雑な行動をとる。言い換えれば、肉と言う食物がそれだけ彼らにとって重要な意味を持っている、と言うこともできる。
 以下は残念ながら目撃したのではなく、西田先生の長年の片腕であったラマザニ・ニョンドーさんの目撃談として聞いたことだ。
 遊動中のチンプたちが、樹上で採食に耽るアカオザルの群れる木の下を通りかかった。樹上のアカオザルに気付いた個体が思い思いに素早く木を駆け上がる。アカオザルは複数の高木上で木の実を食べていたそうだ。殆どのチンプがオス・メスの区別なくアカオザル目指して木を駆け上る。そんな中で、トシボーは木に駆け上がることなく地面に残り、樹上の出来事を見上げていたと言う。
 四方八方からのチンパンジーの襲撃に、アカオザルたちはうろたえたように逃げ惑う。けれど、アカオザルにも作戦はある。まず木を高い方に登り詰め、チンパンジーが上がってくるのを待つ。相手をギリギリまで登らせ今にも手が届きそうな場所まで来た途端、低い木を目がけて跳躍するのだ。その跳躍は時には大変な高低差・水平距離を跳ぶもので、地面から見上げていると惚れ惚れするような大跳躍になることがある。一方、体重の重いチンパンジーはそんなに身軽に跳躍することもできず、登った木を降りてくることになる。
 そして、この時のトシボー。
 その場所には偶々、高木に囲まれるようにして一本の低い木がほぼ中央に立っていたのだと言う。四方八方から仲間が追い立てるアカオザルが低い木に跳躍して逃走をはかる――その目的に、この中央の低木は手頃な高さであったらしい。複数のアカオザルが周囲の高所からそこへ跳びついた。
 その時、トシボーはやおらその低木に走りより、両手で幹を握ると力一杯揺すぶったのだ!
 大跳躍直後で不安定なホールドしかないアカオザルたちは、この揺すぶりに耐え切れず手を放す。
 「まるで、たわわに実をつけた果物の木を揺すぶった時みたいに、アカオザルがボトボト地面に落っこちて来た」と、その時の様子を思い描く表情でラマザニさんが話してくれた。
 地面のアカオザルを木から下りてきたチンパンジーたちが鷲づかみにする。複数のチンパンジーがそれぞれに獲物を得、思い思いに藪に駆け込んで行く。その間、トシボーは低木の最後の1頭が落ちるまで木を揺すぶり続け、自分用のアカオザルは遂に手に入れなかった、と言う。
 ライオンの群れは連係プレーで狩をする、とよく言われる。しかし、数多くのハンティングを見てくると、それは「連係プレー」と呼ぶには語弊のあることだと分かってくる。同じ群れの若い個体と経験豊富な個体とが同じ目標に向かって狩をする時、大概、若い未経験なメスが先行するのだ。未経験なだけに、忍び寄りが下手な場合が多い。この未熟なアプローチを眺めた老練なメスが、獲物の逃走方向を自分なりに予想して位置につく。それは、老練、経験豊富なメスが自分なりの判断でポジションをとっているというのが正解で、あらかじめ打ち合わせがあって成り立つ「連係プレー」と呼ぶわけには行かないと思う。
 トシボーが木を揺さぶったのも同じことだろう。トシボーの単独判断でこういうことが起きたのだ。
 しかし、樹上のアカオザル発見から、低木を揺さぶり仲間が獲物を得るまでの一連の出来事を考えるとき、トシボーの行動を決定した一連の内面的働きは「思考」と呼ぶに値するのではないかと思う。

@仲間が木に登って獲物を追い立てる
Aアカオザルの普段の行動パターンから考えれば低木目指して跳躍をする
B位置的に見て、中央にある低木が跳躍先として手頃だ
C自分も木に登って追い立てるより、下で待ち伏せる方が得策だ
Dしかる後、木を揺すぶって獲物を振り落とそう!

 発端から結果までをなぞると、トシボーの内部でこんな段階的思考がなされたように見受けられる。
 実際のところがどうなのかは分からない。
 最初に、木に登るきっかけを失い地面に残っただけなのかも知れない。中央の低木に次々飛び降りてくるアカオザルたちを見て、その低木に駆け寄っただけなのかも知れない。
 であるにしても、登って行って捕まえる代わりに<揺すぶって振り落とす>という行為を選択することには、やはり、思考の飛躍があると考えるしかなさそうだ。
 おまけに、そうしながら自分は1頭も捕まえることなく、地面に落ちる獲物を仲間が捕まえるのに任せた。
 積極的な利他的行為だとすれば驚きだし、<揺すぶると落ちてくる>という現象事態に有頂天になって揺すぶり続けたのだとしても、自分の行為の結果を“楽しむ”という精神の働きが食欲に先行したことになる。
 やはり、チンパンジーには「精神」があり、「思考」があるのだ。

 <ラマザニ・ニョンドーさんのこと>
 ラマザニ・ニョンドーさんは、京大・西田教授の片腕としてマハレのチンパンジー研究に、その草創期から大きな貢献を果たしてきた、地元トングウェ族の方だ。幼少時からマハレの山々に親しみ、そこの動物と植物について実に多くの知識を持っておられる。初めてのマハレ訪問で知己を得て以来ロケと言えば必ずお世話になっているけれど、いつまでも失われない好奇心と山歩きの達者であることには驚かされ続けている。

 ラマザニさんとチンパンジー研究のそもそもの馴れ初めは、研究施設建設の資材を運ぶ運搬船の荷役人としてであった、と言う。船主のアラブ系商人の臨時雇いで荷役を勤め、それが縁で、長期滞在を始めた西田教授の調理人として雇われた。住居のそばには餌付け用サトウキビの倉庫があり、間もなく、その味を覚え始めたチンパンジーたちがやって来るようになる。
 ラマザニさんは調理人としての仕事のかたわら、サトウキビ目当てにやって来るチンパンジーたちを興味を持って眺めるようになる。遠い国からやって来た日本人学生(西田教授)がフィールドに出ている間、頼まれもしないのにやって来るチンプを数えたり、それらに名まえを付けて見分けようとしていると知るとその名を尋ね、自分でも個体識別を行うようになる。
「わたしが付けた名まえを個体を前にしてラマザニに教えると、これが、特徴をたちどころに見覚えてしまって見分けてしまうんですね。そういう能力は飛び抜けてました」当時を回想しての、西田教授の評である。
 チンパンジーに貴重なサトウキビを与え名まえまで付けて行う「チンパンジー研究」という日本人学生の目的は一切不明であったけれど、自分たちの部族でも特別扱いをしている――人と動物の中間に位置する生き物、チンパンジーである。わざわざ想像も出来ないほど遠い所からやって来て観察するというのだから、自分の知らない深い意味が何かあるのだろう。――調理人のラマザニさんが頼まれもしない在宅データ収集を始めた理由を尋ねた僕に、その様な答えを返してくれた。
 
 しかし、ラマザニさんには、好奇心が人一倍強い子どもであったらしいことを伺わせる以下のようなエピソードがあり、これが、長じて優秀なチンパンジー観察者となることと繋がっているのではなかろうか。
 
「トングウェ族は湖を挟んだ対岸のザイールから渡ってきた部族だと言い伝えられている」
 ロケ仕事の合間に、ラマザニさんが話してくれる。
「子どもの頃からそう聞かされてきて、けれど自分は、ならばトングウェはいつからトングウェになったのか、ずっと疑問に思ってきた。
 他部族に追われてザイールから脱出しなければならなくなったその時点で、既に自分たちはトングウェだったのか。
 そうではなく、湖を渡ってこちら側に来て、それからトングウェという集団になったのか。
 その始まりのところからがまず分からない。
 父親を小さな時に失ったから父に尋ねる機会はなく、年の離れた兄や叔父・叔母たち、集落の長老たちにも尋ねてみたけれど、誰もはっきりした事は教えてくれない。誰も知らないのだね。
 湖東岸のトングウェの土地と言われている所は一通り回ってみた。行った先々で年寄りたちに同じ質問をして回った。けれど、分からない。ある者は"トングウェとしてザイールを出たと聞く”と言い、ある者は逆のことを言う。一番いいのは湖を渡って、言い伝えにあるトングウェの故郷と言われる土地へたどり着き、そこでトングウェ語が話されているかどうか確かめればよいのだけれど、それだけのために湖を渡ることもできない。伝え聞くところでは、トングウェにそっくりな部族が対岸のザイールにいると言うけれど、ね。――
 子ども時分からずっと胸につかえている、生涯解けない疑問のひとつだ」
 
 自分たちの部族の出自が年端も行かない子ども心を悩ませ続けたのだと言う。一体、何歳くらいでそんなことを考えたのか尋ねたけれど、「多分、7歳くらいではなかったか」と、要領を得ない。それもその筈で、ラマザニさんはご自分の出生年月日を知らない。と言うより、ラマザニさんが生まれた頃、その辺りには西暦のカレンダーはなかっただろうし、戸籍法も整備されていなかったから生年月日を届け出る必要もなかった。“ラマザニ”という名まえはイスラム教の断食月“ラマダン”から来ているので<断食月に生まれた子>という意味が込められているのだと思う。そんな時期に生まれたということが分かれば、正確な年月日まで記録する必要はどこにもなかった――そんな時代と地域性だったのだろう。
 先年、歴代の日本人研究者たちが費用を出し合いラマザニさんを日本旅行に招待した。各地に散らばる面々が順繰りにラマザニさんの宿と旅案内を提供したので、北海道から九州まで主要な所を効率よく万遍なく観てまわれたらしい。
 その折、パスポートを取得する段になって生年月日不詳の件が発覚した。
「いやぁ、自分より年上というのではちょっと具合が悪いんで、僕の翌年、1942年に生まれた事にして出生証明書なんかを用意しました」と、パスポート取得の労を執られた西田教授が仰っていた。ラマザニさんの年代のトングウェ人で、自分の生年月日を知っている人はほぼ皆無だろう。
 
 そんな子ども時代を過ごしたラマザニさんが、日本から来た研究者と出会う。意図するところは不明だけれど、チンパンジーの生態行動を克明に観察し、記録しようという。役に立つとは思えないそんなことのために、遠いところからやって来る人々。――
 ラマザニさんの心を、子ども時代から抱き続けている疑問――トングウェはいつからトングウェなのか?――がよぎり、そんなことにこだわり続ける自分自身は、チンパンジーに甘くておいしいサトウキビを配る日本人とどこか似ている、という気持ちが生まれる。
 頭痛や腹痛に効く草木の種類と在り処。 食用野生生物の棲み処や行動パターン。そういった、実際に役立つ知識とは異なる、何の役に立つのか分からないことがらを知ろうと熱中する異国人の気持ちが、ラマザニさんにはすんなり受け入れられたのかも知れない。だから、住居近くにやって来るチンパンジーを数え、また、「誰が」やって来たかが重要であるらしいから名まえを尋ねて顔を覚える。チンパンジーに名まえを付けるなど考えてみたこともなかったけれど、言われてよく見てみれば皆、違う顔をしている。顔と名まえを一致させることは苦労もなくできた、と言う。
 アフリカの人々が「視覚記憶力」に長けていることはしばしば経験する事実だ。
 牧畜民は自分の所有する家畜に名まえを付けて識別することはなく、その色や柄を映像的に記憶している、と言われる。大草原の中のある場所を特定するのも、風景や立ち木、岩や蟻塚などの位置を映像として記憶しておくからだと言われている。
 これは、近海で漁をする漁師が地上の複数の目標物を目当てに漁場を特定する“山たて”と同様だ。アフリカ大陸の住民はこれを、あるいは、家畜の個体識別という分野まで広げて、日常的におこなっている。
 
 余談だが、僕のケニア人の友人はこれを東京都内でやって見せてくれたことがある。
 彼にとっては初めての訪日に、ケニアから一緒に出かけた。日本には彼自身の友人・知人があり、僕は都内のホテルまで彼を送り届けた。数日して電話があり、一緒に行って欲しい場所がある、と言う。彼の友人の事務所まで行き、その友人に会って欲しいと言うのだ。会うのは構わないけれど、事務所の場所は分かるのか?と訊くと、一度連れて行ってもらったから、地下鉄の「カミヤチョウ」という駅まで連れて行ってくれれば後は案内できる、と言う。初めての東京で、一度だけ行った事務所の場所へ駅から案内できる? 駅のすぐ傍とか、或いは駅ビルの中とか、そんな場所なのかも知れないと思い、待ち合わせてともかく地下鉄日比谷線の神谷町で一緒に電車を降りる。ホームに降り立ち、僕は彼が混乱するものと考えた。進行方向によって降り立つホームは異なり、前回彼が来たときと同じ側のホームに降り立ったとは限らない。
 彼はホームの前後を一度づつ眺め、「こっちだ」と、確信ある足取りで歩き始める。半信半疑でついて行く。ホームの端にある階段を上り改札を出ると、地上に上がる階段が3〜4ヶ所見えている。彼はまた一渡り眺めると「こっち」と、階段をあがる。地上に出、左右を一瞥して右手に歩き始める。大通りに出てまた左右を一瞥、右折。しばらく行って横断歩道で大通りを渡り、同じ方向に進んでから小道を左折。しばらく行って「うん、このビルだ」と、間違えることなく友人の事務所に到着した。駅から歩くこと15分。歩きながら彼はしきりに左右・上下を見回していたけれど、日本語はぜんぜん読めないから町名表示などを読んでいたわけはなく、ひたすら風景を眺めて前回訪問の記憶に合致する場所を進んできたことになる。
 僕たちは、多分、言葉に頼る習慣があるためにこの能力を失ったのではないかと、地下鉄駅から友人の事務所まで間違えずに歩いた彼を見て考えた。
 <地下鉄神谷町のX番出口を出てY通りをZ方向に進み、XXタバコ店の角を左に曲がってYYメートルくらい行った左手>
 こんな風に記憶するとしたら、やはり、何かに書き付けないと覚束ないし、出口や通りに名まえがあるからこんな風に言えるけれど、それがなければお手上げだ。
 当然だけれど、アフリカの草原や野山に町名表示はないし、目標になるタバコ屋もない。道に迷いたくなければ要所要所を映像として脳裏に焼き付けておくのは有効な手段だ。有効な手段ではあるけれど、しかし。――

 日本から来たばかりの西田教授よりもチンパンジーの個体識別を速やかに行えたのは、ラマザニさんに「視覚記憶力」があるべき強さで残っているからなのだろう。

 速やかな個体識別能力や頼まれもしない在宅データ収集の実績から、西田教授はラマザニさんをチンパンジー観察の助手とし共に山歩きを始める。一緒に山に入ってみるとチンプが食べている植物のトングウェ名や分布にも明るく、研究助手としてまたとない資質の人物であることが分かった、と言う。
「なんと言っても、ラマザニは知らないことは知らないと、ハッキリ言ってくれるからいいですね」とは、西田教授のラマザニさん評である。
 それは、アフリカの人々と長く付き合っている僕にもよく分かる。
 アフリカの人は「知らない」と言うことがおしなべて大変に苦手の様である。街中で行きずりに道を尋ねられても「知らない」と言えず、うろ覚えの聞きかじりを教えてくれたりする。自分が知らないと別の通行人を捕まえて尋ねてくれたりもするけれど、これも「自分は知らない」と言うのが、こちらに対して失礼と考えるのか単に嫌なのか、そういう理由で別の人に尋ねてくれている様な節がないでもない。
 街中で間違った道順を教えられるくらいならこちらが余分に歩くだけで済むけれど、研究して論文を書かなければならない大学院生にとって、研究フィールドでこれに類することをされては堪らないだろう。
 つまり、ラマザニさんの前に助手を務めていたトングウェ人は、植物の名まえなどを尋ねられて自分の知らないものだと適当なトングウェ名を口にする癖があった、と言うのである。若い西田院生はそれをノートに書き付ける。初めて見るものばかりなのだから、疑う理由はまったくない。別の日にノートに書き付けたのと同じ植物だろうと思って尋ねると、くだんの助手は先日と別の名を言う。目が肥えていない自分の不明を恥じつつ、西田院生はその名をノートに書き付ける。
 しかし、そういうことが度重なればいくら異国の大学院生とは言え不審を抱く。植物を手折って持ち帰り、乾燥させて標本を作る。その上で改めて植物名を尋ねると、助手氏は、フィールドで出任せで言ってきた名まえなので自分でも覚えておらず、また別の名を言う。それで問い詰めると「知らない植物名は口から出任せのデタラメだった」と白状してくれたのでお引取りを願った、という経緯があったのだ。
 ラマザニさんは知らないものは知らないと言い、植物なら切って持ち帰る。持ち帰り、信頼のおける年長者に尋ねまわって正確なトングウェ名を聞きだしてきてくれた、と言う。
 ラマザニさんは生来、抽象を実によくする人物なのである。

 以来、ラマザニさんは西田教授を始めとする歴代研究者の水先案内を務めてきた。
 そればかりでなく、日本人研究者不在の間も山に入り、チンパンジーたちの行動をノートに記録し、データが途切れることのないよう地道な作業を続けてこられた。
 我々のロケ取材でもいつでも案内をお願いし、チンパンジーの移動ルート、行動予測、撮影済み映像上での個体識別・行動の意味付け・個体の歴史などなどなど、数え切れない助力をいただいてきた。日本のテレビ番組でマハレのチンパンジーをご覧になった方も少なくないと思うけれど、それら全て、ラマザニさんの助力なしには映像化することができなかった、と言っても過言ではないと思う。

 マハレが国立公園に指定された時、ラマザニさんは公園局の職員として雇われることになった。
 リサーチ・センターのトラッカーという立場よりも国立公園局の公務員の方が安定した職業、と判断されたからだろう。確か、西田教授からも公園当局に対し雇用を促す提案がなされたと記憶する。
 公園当局にしても未知の新設公園の運営に当り、山とチンパンジーを熟知した地元住民は掛け替えのない助力であったに違いない。

 トングウェ族のルーツに頭を悩ませたラマザニ少年が、長ずるに及んで人類のルーツを探るチンパンジー研究に従事し他人には真似のできない貢献を果たしている。
 ――奇妙な縁だなぁ、不思議な巡り合わせがあるものだなぁ、と、マハレとラマザニさんを思うたび、僕は深い深い感慨にとらわれてしまう。


<この項、つづく>
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