サファリの手帖   <ンゴマに付いて>
MasaiBeads

ンゴマについて

続編<1〜5>

続編<1> 消えかけていたンゴマが不思議な巡り合わせで蘇った(2002/01/20)

続編<2> ピュアーなンゴマの場<マシンダーノ>について(2002/01/24&25)

続編<3> 酒場のアスカリと盛り上がったマリンディの一夜(2002/02/01)

続編<4> ンゴマ・ヤ・ペポ =精霊たちのンゴマ= (2002/05/27)
#僕自身の体験 =コロワ=
#ヘ? ムワリム……

続編<5> ンゴマ・ヤ・ペポ 演奏中の不思議体験 (2002/06/21)

文: 俵 貴実

MasaiBeads

続編<1>

ホームページを公開して1ヶ月ほどが経った2002年1月下旬、筆者から<続編>がEメールで届いた。
譜面に記さず実演を見聞きして伝えるンゴマ故に、
ギリアマ族の作者自身も忘れてしまっていた
「マツァカ」というンゴマ。 
このことがなければ確実に忘れ去られていたであろうその
マツァカが、消滅寸前、不思議な巡りあわせで蘇った
その蘇生には、日本からやって来たンゴマ修行の若者の無作為が大きな役割を果たしたのだと言う。

今日はとりあえず不思議な話しをします! (僕の知人にはお馴染みの話しですが、、、)

僕がナイロビでM氏に習い始めた頃、マブンブンブというンゴマの種類(演奏形態)の中で、マツァカというンゴマを習いました。 これは比較的簡単で振り付けも易しく、ジャシーの卒業劇や、授業の中でやったりした程親しみやすいンゴマでした。

歌は、ハアーィエーマツァカ(呼び掛け) へ−フオー(応え)これを何回か繰り替えした後、
ハ、ィエー ハ、ィエー ナムマラ マツァカ! という呼び声と共にユニゾンのダンスになだれ込むのですが、

*マツァカ=人名、 ナムマラ=ナタカ(〜が欲しい、という意味)

まぁ、割かし簡単なのにカッチョ良いンゴマな訳です。(お茶を濁す程度であれば、、、)
これを僕がジヤシーに勤めていた時、日本人の学生として来たD君に教えました。というか、本格的には僕では未だ役不足だったので、M氏を通じて知り合ったG氏を彼に紹介し、彼は主にこのG氏にナイロビでンゴマを習う事になった。
このG氏もナイロビに住むギリアマの人で、昔ボーマス・オブ・ケニア(※【伝統家屋群】という意味で、その名の通り、諸部族の伝統的住居が展示されているナイロビの観光施設。併設のアリーナで専属芸人による伝統芸能の催しが行われる)でも働いていて、太鼓も叩いて、歌も歌って、踊りも上手で、ズマリやシヴォティ何かも上手で、ジャシーの授業にもM氏と一緒に来てもらっていたりした。多分、今はシェードホテルか、マサイマーケットで土産物を売ったりしていると思う。タレントの柳沢信吾に似た風貌が目印だ。
またこのD君も東京でナカナカ上手な方のダンサーだッたらしく、本人もナカナカ真面目に取り組んでいるようで、初めて会った時にでっかいアフロ・ヘア−にやたら真剣な顔をして「俵先生ですか?太鼓教えてください!!」といきなり切り出してくるお馬鹿さんだったので、たまらずこっちもみっちり面倒見てあげちゃいました。

まず、いきなりゴンダを教えたので…う〜ん…頭の中が「?」になっていましたねぇ。多分、本人が思っていた様なイン・テンポで、2、4にリズムのポケットがわかり易く落ちて……といったようなモノとはぜんッぜん違ったんだろうなぁ、ゴンダはよくある、複雑なリズムが別々のタイムで同時に進んでいく、したがって、リズムのアタマがいくつも在って、タイムを見失ってしまう、といったようなモノとも違うし、、、兎に角、自分で叩きながらタイムがぜんッぜん解らなかっッたんだろうなぁ。まぁ、本人もあんまりタイム感がいい方じゃなかったしなぁ(こんな事言うとまた、は〜い はい!とか言われるな)
まっ、この種の悩みの種明かしは後にとっておいて、そんな彼もこのンゴマはわりと親しみ易かったんだろう。よく叩いていた。

このD君は卒業後、更に深くンゴマを体得する為に、僕と一緒にンゴマ修行の為の村まわりに付いて来て、そのまんまギリアマの村に居着いてしまい、結局日本へ帰るまでンゴマの修行をしていた。
そこで、その彼が好んで居着き、学んだ村がある。彼はここで一生懸命練習して、ギリアマの名前(チェンゴ=新しい家という意味)と呼ばれるほどになった。(この村は、コーストにあるゲディ遺跡(※マリンディ南部)の近くにあり、普段から観光客に伝統芸能を見せたり、お土産を売ったりしている。一番新しい地球の歩き方の”東アフリカ編”に詳しく載っています)

この村のムゼーはR氏という、マブンブンブの有名な人で、直線的で抜群のスピード感をウリにしているスタイルで、D君はこのムゼーのンゴマがやたらと好きだったようだ。
ある日の事、D君がナイロビで習ったマブンブンブを1人でおさらいしていると、それを何気なく見ていたムゼーがハッと思い出したように「そう、そう! そんなンゴマが在ったなぁ!!」と言ってD君を呼び、テープレコーダーをセットさせるとおもむろに歌いだした。
ブンブンブを叩きながら歌われるそのンゴマは、何と“マツァカの原曲”だったのだ!!
このンゴマの本当のバージョンは、前半マツァカさんについてナガ〜ク歌われていて、僕らがナイロビで習った所は全体のたった4分の1程の、最後のパートだけだったのだ!!(つまりサビだけね) 
ムゼー自身も永いあいだこのンゴマを忘れていたようで、村でこのンゴマを知っている太鼓叩きは、踊子を含め、ムゼーをのぞいて1人も居なかったらしい。 そこでムゼーは早速このンゴマを子供達に教え始めたとさ、ちゃんっちゃん。


後に、D君はこの録音したテープをナイロビに持ち帰り、僕の家でD君の1番始めの師匠G氏に聞かせた。
普段冗談ばかり言っているG氏が、真剣な顔つきで、まるでこのンゴマを自分が初めて聴いた遠い昔に戻ったように「そうだ! そうだ!……」と呟きながら聴いていたのを想い出す。

つまり、このムゼー・R氏が”マツァカ”を作った本人だったわけだ。
その昔、ギリアマの社会では<マシンダノ>(※競技会というほどの意味のスワヒリ語)という娯楽が流行っていて、これは広く開けた場所で当時名を馳せた太鼓叩きや踊り手、歌い手などのたくさんのグループが二手に別れ、「よーいドン」で一斉にンゴマを始め、その優劣を競うというものだ。その優劣を決めるのは周りに集まっているたくさんの観客達であった。つまり、観客達は自分がすごいと思った方を見に行って、そのグループを応援し、負けた方のグループは自然にンゴマを止め、そのリーダーが勝った方のリーダーに手を差し伸べるという、実にアフリカ的な娯楽だった(うーん、一度でいいから見てみたかった!)。

もちろんここには、M氏の父親のムゼーC・S氏も出ていたし、このムゼーR氏も、その他にもたくさんのグループが、金もうけの為ではなく、純粋な娯楽としてその腕を競い合っていた。
多分、D君の師匠・G氏は幼い頃このマシンダーノでムゼーR氏がマツァカをやっているのを見、そのサビの所だけを記憶に止め、村を出てナイロビへやってきた。そして何の因果か、僕の師匠M氏の紹介を経て日本人のD君にギリアマの太鼓を教える事になり、ここでD君に教えた”マツァカ”(完全な形ではないが)は、ケニアはおろかアフリカに来るのも初めてであるD君の身体に宿り、そのD君を通して、そのンゴマがすでに姿形も無くなり途絶えてしまったムゼーR氏の村、否、ムゼーR氏本人のもとへ戻って来て、再び息を吹き返した、という事だ。
何の誇張や嘘臭い神秘主義を気取る事なく、一つの歌が一人の偉大な人物を通して生まれ、幾年かの年月を経てその歌がマシンダノという娯楽を通して新たな叩き手の身体に移って、切れ端だけがナイロビに渡り、それが不思議な運命のもとに日本人でアフリカ初体験のD君の腕に渡り、切れ端だけの死にかかったそれが――思い出して欲しい、それは生んだ本人の村で消失してしまっただけでなく、その本人さえ遠い忘却の世界に封印してしまっていたのだ!――長い年月を得て奇跡のタイミングで、生み出した本人の耳にとまり、完全なる形でこの世に蘇ったのだ!! そしてそれは現代の利器で”録音”という形をとってナイロビへ戻り、奇しくもその伝道師になってしまったG氏のもとに戻った。
そのなが〜い道程を通して蘇ったそれは、そりゃあ簡単にG氏を記憶諸共かつての麗しき世界へ連れていってしまうだろうなぁ、と思うのである。

僕は決して神秘主義者ではないが、何だろう?不思議なものを感じる……。本当にすごいスピードで消えていっているケニアの伝統芸能の中で、多分、こんな事ってたくさん起こっているんだと思う。冗談じゃなくて、今現在もどんどん失われつつある今のケニアの状況で、失われかけた1つの唄が再び蘇るという出来事にリアルタイムで一緒に居られたという、不思議な、そして貴重な体験。 しかし、その裏ではもっと沢山のかけがえの無い大切なモノが失われていっているという現実も、目の前に突き付けられたようで……複雑な心境です。

こういったモノは時の移り変わりと共に絶えず変わっていくモノかもしれないし、そうやって失われて行くのは仕方の無い事かもしれない。でも本当にそうかなぁ? それでいいのかなぁ? 僕ははなはだ疑問に思うのです。
だから、これは僕一人では何をしたって何も変わらない事で、具体的にどうすれば良いかなんて全然解らないけれども<下手な考え休むに似たり> まず行動を起こさなければ! な〜んて思いながら、書いています。

誰かこれを見た人で、良いアイデアや意見、興味があって自分でやってみたいという人や、自分でも同じような事をしている人が居たら、是非連絡をください! お願いします。

今回はこれでお終い!では!           1月20日 俵 貴実


続編<2>

東アフリカの芸能文化に対する筆者の思いはさらに熱い。
間髪をおかず、Eメールが僕の元に届く。

今回は伝統芸能大会<マシンダノ>について教えてくれる。
Date: Thu, 24 Jan 2002

年末に行きつけのレコード屋へ行き、そこで僕はいつものように新作を試聴していた。
なぜなら、タダだからだ。僕は昔からタダにはこだわるのだ。はははは。
そこで新作のピアノトリオを聴いていると、ヘッドフォンの外でアフロのリズムが聴こえた。その時は別に興味もなく“はいはい、アフリカね…”という感じでいた。しばらくしてそれが太鼓言葉に変わり!? ギチャギッ、チャギ ギッチャギッチャギツ・・・・?!なんとその一語一語は懐かしい、マブンブンブのそれだった!
驚いて、店員にこれは何かと聞くと、某ピアニストがケニアに来てカーニバルという所でケニア人と一緒にライブをやった、その時のCDと本であるという。その本を見せてもらうと、あらまー、懐かしい顔ぶれが……。 思わず買って家へ帰った。

そのCDと本は買ってすぐ友人に譲ってしまったので(捨てたわけではない)今、内容に関して詳しく覚えてはいないが、気になった点がいくつかあったので――決して無駄な批判ではなく、挙げ足取りでもなく、極めて友好的に、さらに前向きに――その事についてふれながら、今回の話の本題に入っていこうと思う。

まずケニア人のメンバーの紹介で、日本人ミュージシャンたちに“歯っ欠け”(ちょっとひどいね)と呼ばれていたエハ・クイチャ氏、これは×、間違いです。 クイチャはあだ名で、また“エハ”ではなく“イハ”だ。ギリアマに”エハ”なんて名前はないよ。まー、本名は後にとっておいて、その他のワカキも、多分写真ではなかなかその人本人か区別がつかなかったけれど、多分私の友人のワカケ氏だと思う。
<そんなの日本人ミュージシャンも海外で間違われるし、それに一文字だけだろう>と思う人へ・・・
別に、その間違えを批判するつもりもありません。が、ケニア人ミュージシャンやケニアの伝統音楽の現状など、前に僕が書いたものを読んでみて下さい。(3.ちょっと悲しい現状) 
ケニアへ来た三人のその日本人ミュージシャンはよく知ら無いけれども、ケニア人側のミュージシャンはよ〜く知っている。その腕前も、それに見合わない彼らの生活環境も・・・
彼らにとって、これが世に出ていける最初で最後のチャンスかもしれない。そんな時、名前の間違えは決して小さな事では無く、名誉の問題でもあるし、なにより、もし間違えていても彼らにはその訂正のチャンスも与えられないだろうなぁーと思い、ここできっちり言わせていただきたいのです。

また、新しい地球の歩き方の最後の方のページにある<東アフリカの伝統音楽について>のコラムで、編集者とのやり取りにちょっと問題があり――僕の字が汚かっただけなのだが――ミスプリがあったので、ここで一緒に訂正させていただきたい。
まず、エドワード・カボコ(これには笑ってしまった)フェスタス・ウペンド、ムイタ・アルク(なんだそれ)この三人は、順に<エドワード・カボィエ> <フェスタス・オキンダ> <ムイタロ・アルクェ氏> が正解です。

そしてさっきのクイチャ氏の本名はというと、、、まずその本の付録のCDの中で、問題の彼らが太鼓言葉で日本人ミュージシャンに教えているテイクがある。そのライナーがまず間違っていて、ここで中心になって彼らに教えているのはクイチャ氏ではなくて、マーシャ氏だ。なぜ分ったか? だって、声が違うもの。

実は、このマーシャ氏(正確にはジュリアス・シュトゥ・マーシャ氏)が僕をンゴマの世界に連れていってくれた、長年の友人、師、兄弟であるM氏その人なのだ!! 間違えるはずが無い。その本に載っているケニア人は皆、僕の友人だ。忘れるわけ、間違えるわけが無い。
しかし、その場にクイチャ氏が居たのは本当だと思う。少し声も聞こえるし、日本人ミュージシャンに教えている唄の中で、クイチャの名前をマーシャが呼んでいるからだ!! そこで教えられているのは<ナフィカ チャカマ>と<ナハグラ ングオ ニピゲ パシ!>だ。
始めの方は、まず、“ナフィカ チャカマウェ カムトゥウェ チャリフ ワ ババ ムジャマウェ−”という唄の後、ギチャンギ、テペテペテ、ジギッ、テペテペテぺ、“ギチャッギ、チャギ、ギッチャギッチャギ、グウィッグウィッグウィッグウィー、グウィッ、グウィッ、グウィッ、ジギジギジギジー”イハレ−ハレー、・・・・とこのまま続く、このンゴマの全体の5分の1ほどの場所、(“ ”で括られている所)ほんのちょっと、本当にチョ〜ッとの所でいつまでもつまずいている、その説明は置いといて・・・・。
2番目の唄で、“ナハグラ ングオ・・”の後、“カヒンディ・ワ・チャロ(人名) リチャクニマウェ!”と本当は歌われる所を、目上のクイチャに敬意を示し、マーシャが“カリサ・ワ・チャロ”と、彼の本名カリサ・マケンジを咄嗟に使って歌っているのだ!!又、“チャロ”はマーシャの父親の名前でもある。
つまりこんな風に、その場その場によってアレンジされ、彼等(ケニア人側)は楽しんでいるのだ。こんな時このウタを理解出来ない人は、ただ手拍子を打って、うわっつらの所で楽しむ事しか出来ない。つまり、ンゴマの本当のウタムは味わえない。彼等だっていちいち説明しないだろうし、こういう”粋”というやつは“説明するだけ野暮天だ”という事なのさ。
この2つのンゴマは多分、ムゼー・ブキ(※ブキ-人名-大老)のグループのモノだ。そして、このムゼー・ブキは変わった人で、彼のグループはかなり有名なグループだったのだが彼自身はギリアマの人ではなく、スワヒリ族だッたのだそうだ。また、ンゴマのムウェニェ・ムトゥンガ(作曲者かな?)ではなく、ムピガジ(太鼓叩き)でもなく、ムインバジ(歌い手)ムチェザジ(踊り手)でもなかったらしいので、多分、原作者はそこの偉大なムピガジ&ムインバジのムゼー・コータ(本名カリサ・ワ・シリア)だと思う。
クイチャと彼の兄ガラマはこのムゼー・ブキのマブンブンブが得意で、彼等兄弟はズマリや、ブゴ、シヴォティなどのメロディ楽器も得意で、ガラマ氏は年齢(トシ)と足を怪我してしまった為、あまり踊れなくなってしまったが、クイチャ氏は未だバリバリに華のある踊りを見せてくれる。特に“ナタカ シガラ”等は最高だ! 彼等はマーシャより年齢がずっと上の為、マーシャはそのへシマ(敬意)を忘れない。これは、その本に載っているイディーがマーシャに取る態度と同じものだ。まぁ。事実上、彼等は師弟関係にあるから当たり前といえば、当たり前だが。

さて、このマブンブンブ、ゴンダ等は、どうしてこんなに難しいのだろう?他のギリアマのンゴマ、ンゴマ・ヤ・ペポやナンバ、チェチェエメコ等に較べて、確かに先の2つは覚えにくく、タイムもとりずらい。ちゃんとやろうとしたら他の3つも難しいけれど、、、でも、何でだろう?

先の2つのンゴマに共通しているのは、イチゲンサンはお断り、というか、初めて聞いた人がすぐ一緒になって身体を動かしづらい所がある。また、一曲一曲が短いし、歌詞も、“ナムカマタ ムレテ トゥムティエカンバ”(野郎を捕まえてふんじばっちまえ!!)なんていう過激な歌詞から、ンゴマ・ヤ・ペポなんかから引っ張って来たのもある。元々、ゴンダは結婚式のンゴマで、マブンブンブは若い人達が出会うお祭りのようなモノのンゴマであったらしく、そして、マブンブンブはその名の通り、複数のブンブンブで叩かれるンゴマ(じゃぁ、MA−クラスか?)であるらしいが、これも何か決定的なものに欠ける、というか、この両者の間に明らかな違いというのがナカナカ言葉で言い表わしにくく、かつ他の三つのンゴマとは明らかに違うのだ。僕が思うに、この原因にはマシンダノが大きくかんでいると思う。

マシンダノとは、前にも書いたが、ギリアマ族の社会の中で生まれた娯楽の一つで、当時沢山あった数々の太鼓の名人、唄の名人、踊りの名人などが、ひしめき合うグループ達が一同に介し、大きくひらけた場所で二手に別れその腕前を競い合う、といったものだ。その勝敗を決めるのは、その場にいる観客達で、彼等がその場で観て、「すごい!」と思った方へ行き、たくさん人が集まった方のグループが勝という、とてもライブで、エキサイティングで、公平で、それはそれは夢のような時代にあったものだ。
この中で勝ち抜くには、やはりその前にあったであろう<ンゴマ・ヤ・ペポ>など、その効果がゆっくりとじわじわ効いてくるような、憑き物系のンゴマでは分が悪く、やはり速攻で勝負が決められるような唄がこの頃たくさん作られたのだと思う。
そのため、もともとアッタ役割からその二つのンゴマは離れていき、より派手に人の目を引き付けずにはおれないような唄を生み出していったのだろう。私見だが、このマシンダノというのが、ギリアマのンゴマの中で初めて観客対演奏者側という図式を作ったものではないか。そしてこのマシンダノがギリアマの社会の中で生まれた彼等の為の娯楽である、というのが大切なポイントになってくる。つまり、演奏者が自分達の演奏をお金に変えて商売に繋げるといったものではなく、ただ彼等のお楽しみのため、そして、そこで勝つ事の名誉のために生まれた、と言うのがその時期にたくさんの優れた人物や、唄を生み出した理由なのではないか、と思う。そのギリアマ族の芸能の粋とも言うべき数々の唄たち、グループ、そしてその“場”とも言うべきマシンダノは、もうない。 これはとても悲しい事だ。

Date: Fri, 25 Jan 2002

前回書いたゴンダ、マブンブンブ、またその二つのンゴマの魅力がもっとも美しく華ひらいた時代。その時代を作った“場”である、マシンダノについて、もう少し詳しく書いていこうと思う。

 ンゴンダ、マブンブンブ、この二つのンゴマはケニア人にとっても少し難しいと言う。僕もそう思う。僕が知っている限りでも、この二つのンゴマを叩く外国人って聞いた事無いし、プロ・アマ問わず、やり始めてすぐ、そのウタムを楽しめるようになった人はほとんど居ない。まあ、途中で行き詰まり、やめてしまう人がほとんどだ。
 ギリアマのンゴマ、ひいてはケニアの伝統音楽、またはアフリカ全体の伝統芸能といったものが、未だ日本でまともに紹介されていなくて、一般にも認知されていないという事もあるし、僕に限って言えば、僕のプレーがまずいか、教え方が下手なんだという事もあるだろう。この難易度については先の日本人ジャズミュージシャンの方々にもお聞きしてみたいし、どなたかこれを読んでいる人の中で何かしらの経験のある方は御感想を聞かせてもらえないだろうか。(もちろん他の民族の伝統音楽でも大歓迎である。)
でも、運良く(?)ンゴマの世界に入るきっかけを作ってくれた私の師は、ゴンダの家系だったので、必然的に僕はゴンダをベースとしている。その僕だって初めてゴンダに触れた時は「なんだそれ!?」と、頭の中はハテナになった。(前文を参照)
 また、ナイロビでマーシャ達に習う時は少し違うとしても、村で習う場合彼等のンゴマの習得スタイルは、ただ集中して先生がやっているのを見て、聴いて、覚える、というだけのものだから、そういったやり方に慣れていない人(それがプロだろうが、なんであろうが)は、そのやり方に慣れるまでにやたらと時間がかかるのだ。
 その日本人ジャズミュージシャンのCDを聴いている限りでは「あー、そんなやり方じゃまずわからないだろうな…」と思わずにはいられなかった。他の種類のンゴマを修得する場合にも言えるかもしれないが、まず、手拍子をとる。これはやめておいた方がいいです。理由はたくさんあるけれど、本人が抜群に優れたタイム感を持っているならまだしも、また、タイムの概念も日本人と彼等では全然違うと思っていた方が良いです。ともかく、タイムが取れないからそれを探して手拍子を打つ、というのはやめた方が良いです。
 結論は、村で行われているやり方が一番です。一見、回り道のようでも、彼等のやり方に自分をチューニングしていく方が一番早かったりします。
 その結論を言ってしまった後で、あえて他のアドバイスをするならば、まず唄と太鼓がお互いにしっくり来るような距離感。つまり、本人が自然に唄いながら叩ければOKでしょう。それか、熟練した踊り手と一緒に叩いて練習する。先の二つのンゴマの踊りには、自由な部分もたくさんあるけれど、まあ大切ななキメの所をしっかり押さえながら叩けるようになればOKでしょう。はたまた、デベと一緒に叩く練習をしてみてください。デベは、そのンゴマをぐんぐん前へ押し出すエンジンのような役ですから、その上にしっかり乗って叩ければOKです。
 しかしこのデベ、ただただ金物を叩くだけのデベ、もしかしたらこれが一番難しいかもしれない。
 これと一緒に叩いたおかげで、ますます訳が解らなくなるかもしれない。ギリアマのンゴマがどんどん衰退して行く今、このデベ叩きもどんどんいなくなっている。もしかしたら、もう一人も居ないのではないか?

 とにかく、デベがすごいと全体がどんどん前へ前へとプッシュされ、太鼓達はますます生き生きとその躍動感を増すのだ!
 反対に、デベがダメだとずるずると足を引っ張られ、まるでゴキブリホイホイに捕まったゴキブリのようになってしまう。
 そんな大切なデベを専門に叩く人などはもうほとんどおらず、太鼓叩きが代わる代わる叩く、と言ったものになってしまっている。そうすると、デベは本来の役目を失い、下手をするとそのデベ叩きは、太鼓のキメを一緒になぞっているだけの場合もある。それは、めちゃめちゃタイムをはずして叩くやつよりはましだが、それではもうデベではない。本当のデベ叩きは、とても複雑なキメを太鼓叩き達が叩き倒していく中で、一人そのタイムを明確に打ち出しながら、そのンゴマ全てをがんがんにプッシュしていかなければならないのだ。そう、デベ叩きこそがより優れなタイム感を要求されるわけだ。

 マーシャ達は別として、僕は一人本物のデベ叩きに会った事がある。
 そのムゼーは、だいたい60歳以上、45年以上ひたすらデベだけを叩いて来た、デベのスペシャリストだ。そのムゼーが居たのは、前出のムゼーR氏の村だったが、その時に見せてもらったンゴマはすごかった。もともとムゼーR氏のンゴマの魅力は直線的なスピード感にあったが、そのスピード感を生み出す重要な要素がこのムゼーのデベにあった。
 その村は、普段観光客相手にンゴマを叩くのを一つの生業としているせいか、村びとは、皆血縁関係にあるというわけではなく、割と出入りの激しいところがあり、その頃、ムゼーR氏の後を継ぐだろうと思われたシャウリという若者も、ある理由により、去年僕がその村を訪れた時には姿を消してしまっていたし、そのデベ叩きのムゼー自身、僕が二回目にその村を訪れた時(3年以上前)にはもう居なくなったしまっていた。現在は、多分ムアカムシャという太鼓叩きがシャウリの代わりに叩いていると思うが、どれほどつづくか……。
 またその村には、ムゼーのお孫さんに当たるのか、やたらと上手いガキがいる。この、各村にいるやたらと上手いガキ達についてのエピソードはまた他の時にまとめて書くが、今はもうかなりの高齢になってしまったムゼーのンゴマをその孫がしっかりと継いでくれるのを祈るばかりだ。

 ギリアマの太鼓の秘密の1つ。 <ムションドとブンブンブに会話をさせる事>これがたくさんある秘密の中の1つだ。だから、ゴンダやマブンブンブをマスターする時、どちらか1つでは足りない。2つを1人で歌いながら叩く事をすすめる。さっきのタイムなんて、この<2つの太鼓に会話をさせる>という意味が本当に理解出来れば、自然と理解できるようになる。そんなに訳の解らないもんじゃない。タイムなんて、要は時間だ。形が見えないこの時間、これを個々でどう感じるかということなのさ。例えば、「ヤーレン ソーラン」と唄いながら手拍子を打つ、その時手を打つタイミングをとっているその感じ方で、そのスピードで、そのテンポで、その人の“今”は流れて行っているのだ。

 時間はずっと流れている。今こうしている間も、絶ゆまず流れている。あんまりにも当たり前のようにず〜っとながい、ながい間ながれ続けているので、僕らはその中に完全に取り込まれてしまったようになり、普段その流れをあまり意識する事無く過している。しかしウタを歌い手を叩く、その時、たったそれだけの行為が、誰もが持っている内なる自分だけの世界と外の世界とを繋ぐものとなり、それを誰か他の人と一緒に歌い踊り喜びを分かち合う、たったそれだけのことが各自の内側で流れる時間と外側で流れている時間とをチューニングし、そしてそれをお互いが明確に共有しあう、というマジックを生み出すのだ。そして、そのマジックの故に、それはしばしば<神聖なものとの対話の役割>も負うのだと思う。

 やり方がわかれば後は簡単ね。後は太鼓に会話をさせてあげればいいのさ。
 例えば僕が誰かに「俵!」と呼ばれて、僕が「何?」と返す。これを同時に行うと噛んでしまって会話にならない。会話する時はお互いが別々のタイムで進み、つまり自分も相手も表であり裏でもあるわけだ。こういった形のアンサンブルによって、1つの時間を何人かがお互いに別のかんじ方をしながら共有する。だから、これが、ミュ〜ジシャンの方々がいうポリリズムの正体だ。よって、お互いが引っ張りあったり、反発したりするように感じるわけだ。(良くいうつられちゃッたり、自分のタイムを見失ってしまうというやつの原因)――いや違うかな?
皆は会話をする時にわざわざ手や足でテンポをとるのかしら? そんなことはしないでしょう? その時、会話が噛み合うという事は、タイムはもうその各自の内面に自然に存在している。なぜなら、言葉を発して他者と会話するという行為そのものが、ゴンダやマブンブンブのアンサンブルと同じモノだからだ。だから、当然、彼等はそのアンサンブルにおいて僕らのいうカウントをとったりしないし、それを教える場合、それをいちいち分解して教えたりはしない。

これから、これを読んでゴンダやマブンブンブ等をやってみたいと思う人へ。
太鼓を叩くのではなく、太鼓に会話をさせてあげるように叩いて下さい。それが自然に出来ればもうあなたの中に自然なタイムが出来ていますよ。にわかには信じられないかもしれない。でも、これからも色々と話して行くけれども、僕は誰にだって出来ることだと思う。その気になれば、こういったものに触れるという事は出来ることだと思うし、ギリアマやアフリカの世界だけに限らず、たくさんの人に体験してもらいたい。
 その時、「何だろう?」「うひょ−!すげーな−!?」と感動してもらいたいし、是非その中に飛び込んでもらいたい。
 この世界のバライエティーの中で我々の知っている事なんていうのは本当に鼻くそ程しかない。その鼻くそが全てだとしか思えない人達が多い中で、そういった事に触れ、飛び込んでいけるのは一つの才能だと思うので、そんな人は是非自信を持って頑張ってもらいたい。そういった圧倒的なバライエティを前にして、あえて普遍的な何かを見つけたい時、決して外側から見ていても分かりはしなくて、出会う驚きの中1つ1つに飛び込んで行って内側から見て行く事をしなければ、ぜーったいに、ぜーったいにそのヒントすら掴めるわけがないのだ。

                            では! 俵 貴実

MasaiBrace

<続編3>

酒場のアスカリ(夜警・門衛)と古いンゴマに盛り上がったマリンディの一夜
ンゴマは、こんな風に受け継がれて行く。


Date: Tue, 1 Feb 2002

   ルヴト・ワ・マンギ
   ルブト・ワ・マンギ
   ビビンダ リ ゴマ


 こういう唄で始まるンゴマがある。作者は勿論このルブト・ワ・マンギだ。
 このンゴマはとても有名なので、今でもたくさんの人が覚えており、たくさんのンゴマの叩き手の腕を通り(彼等はこういう表現をする、う〜ん良いなぁ)、今でも叩かれている。
 この人はもう既に亡くなってしまったが、聞くところによると、その体型にとても特徴があり、足はルパン三世のようにとても細いが、腹がやたらと出ていてとてもユーモラスな風貌をしていたらしい。
 このンゴマの踊りは、前半とてもトリッキーなリズムに乗せ、宙返りをしたりして跳ね回り、最後に太鼓に合わせて前へズンズン進み、最後の”ギッチャギチャッ”という太鼓を合図に両腕で自分の大きな腹を抱え、両足を宙に投げ出しお尻からズドン!と地面にシリモチをつくというモノで、これが”極まる”と皆ワイノワイノの大歓声だったらしい。この唄は先のマシンダノでも切り札のように出て来て、多分その評価も皆の中で高かったのだろう。

 去年の夏、某雑誌の取材でケニアを訪れた時にこんなことがあった。
 マリンディという町のホテルやレストランを取材している時、会社から渡された滞在費をケチり、昔馴染みの某スワヒリ族女性の所に泊めてもらっていた。飯は旨いし、お姉ちゃんは綺麗だし、子供は可愛いし、いいことだらけなのだが、ある夜、どうにも暑くて寝苦しく、冷たいビールが飲みたくなって、これまた馴染みの酒場へ逃げ込んだ。(スワヒリ族のほとんどがイスラム教徒なので、僕はこの家にいる時、隠れて酒を飲みに行くようにしている。)
 しかし、その酒場はすっかり変わってしまっていて、馴染みのマラヤさん(夜のおネエチャン)もいなくて、寄ってくる新顔のマラヤさんがうっとうしく、店の門にいる年老いたアスカリ(警備の人)の所で座って飲んでいた。そのアスカリと、いろいろとダベッているとギリアマの人だと分ったので、彼にマシンダノの事を聞いてみると、彼自身が昔踊り手で、そのマシンダノにもでていたらしく、いろいろな話しを聞かせてくれた。

 俵    「じゃーさ、ルヴト・ワ・マンギって知ってる?」
 アスカリ 「おー、おー! あの腹のでかい!」
 俵    「足の細い?」
 アスカリ 「そう! 足の細い男」
 俵    「じゃ、この唄知ってる?」

 「ルヴト・ワ・マンギ ルブト・ワ・マンギ ビビンダ リ ゴマ!」
 するとアスカリは、宙返りこそしなかったが、僕のウタウ“口太鼓”に合わせて踊ってくれた。そして、最後のところが二人でバッチリ極まると、一瞬間があり、その後お互いに満面の笑顔で「オー!!」と言いながら手を握りあった。
 気が付くと、ビール片手にマラヤさんと、ムレビ(酔っぱらい)の何人かが周りに集まって来ていて、そこでまた盛り上がった。アスカリと僕は、彼等に色々と質問され、アスカリはちょっと誇らしげに答えていたのだった。
 その後、集まった観客達にいくつか他のンゴマを又やってみせ、そのキメが極まる度、みんな「オー!」とかいって盛上がり、僕ら二人はビールをおごってもらい、興にノッテきた僕らは他のみんなが呆れて中へ帰ってしまっても、あーでもない、こーでもない、とお互いの知っているンゴマについて語り合った。
 僕の知らない無数の凄い叩き手、唄い手、踊り手達が互いにその腕前を競い合っていた時代、その一人一人について、時には身ぶり手ぶりを交えながら教えてくれた。
 そんな人達がいる限り、ルヴト・ワ・マンギ達はンゴマと共に生き続けるし、う〜ん、あの時みんなが一緒に居たらなぁ、僕が言っている事は全然嘘なんかじゃないって、きっと分ってもらえるし、ちくしょう、皆もこんなに沢山言葉を使わないでも、すぐンゴマを感じて好きになっちゃうのになぁ。

 そのアスカリはマドゥングニという地域出身の人で、そこには、僕のちょっとした知り合いの太鼓叩きが住んでいるので、まぁ、その人はゴンダやらとはちょっと違う種類の太鼓を叩くのだが、その人も知っているか?と聞いてみると、アスカリは“ギョッ”と目を剥いて、「お前はそんな男も知っているのか!?」と逆に聞かれてしまった。
 僕が「知っているだけじゃなく、その人の村に住んだこともあるし、彼がそのンゴマ(その人が叩くンゴマの種類)の僕の師匠みたいなモンだ」と言うと、アスカリは本当か!?と又聞き、ビ〜ラシャカ(もちろん)と答え、その知り合いの仕事仲間のような関係の人の名前をあげ、その知り合い自身の事を唄ったンゴマを唄ってみせると、ウ〜ンと言って腕を組み唸ってしまった。
 その後、アスカリはその僕の知り合いについて色々語ってくれたが、結局の所、「奴と奴のンゴマはハタリ(危険)だ!」と言う事だった。
 
 どうして彼が「ハタリ(危険)!」と言ったか?
 その真意は?
 又、その知り合い自身とそのンゴマについて、次は書いてみようと思う。

以上で、今日は終わり!



<続編4>

<ンゴマ・ヤ・ペポ=精霊たちのンゴマ>

<ペポ>はスワヒリ語で<霊的な存在>を指す。
霊的なものはすべてペポだが、<精霊>と<悪霊>の両者を含む語である。
物事の両面性を等しく認知するここの人々に、いかにもふさわしい単語だ。
太鼓修行の若者が、今度はその名を冠したンゴマに出合う。

#僕自身の体験 =コロワ=
#ヘ? ムワリム……


Date: Mon. 27 May 2002

……
そんなこんだで、午後からは例の「ゴンダ」を直接ムゼー・C・Sから教わる事になり、頭の中は混乱していった。今当時の模様を録音したテープを聴き直してみると、もう憶えが悪い悪い・・・。何度もいうが、ゴンダは難しい。少なくとも僕にとってはショックだったし、次々と出てくる新しい唄によって頭はどんどんパニックになっていった。そしてムゼー達は憶えがあまりにも悪いので、「じゃあこれはどうだ?」といった感じで、さらに他の唄を出してくるのだが、これが逆効果で、もう僕はショート寸前。ムゼー達は呆れ顔。それをマーシャが間に立って何かと必死にまとめる。といった後で、ヤシ酒の悪酔いも手伝って、ドッと疲れる展開になる。翌日はそれが朝から晩まで続き、二日酔いと相変わらずチャッチャッと憶えられない自分への自己嫌悪・・・。

そんな時、2日目か3日目の昼

 マーシャ: 明日はもうちょっと奥地(田舎)にあるマドゥングニというところへ行こう
     俵: そこで何をするの?
 マーシャ: うちの父親の古い馴染みの太鼓職人がいるから、彼の村に泊まり、そこで俵の太鼓を買って、また他の種類のンゴマを習うんだ。
     俵: どんなンゴマ?
 マーシャ: ンゴマ・ヤ・ペポだ。

といったやりとりがあり、とにかく「ゴンダ」にやられて行き詰まっていた僕には正に助け舟といった感じでその話しにのった。
深く考えもせずに・・・。

さて、これからがやっと本当の始まりだ。

マーシャ達の村も含め、本来ギリアマの人達のホームグラウンドに当たるマリンディは、今やケニアの海岸地方で、モンバサに次ぐ有名な観光地で、海には海洋国立公園もあるし、ビーチに面した一等地の殆どが、大きなリゾートホテルや別荘で埋め尽くされ、毎年かなりの数の観光客が訪れる。
12月などのハイシーズンには、観光客と、それ相手にさまざまな商売をする人達で街はごった返す。そこでは、ガメラとかキングギドラの様な欧米人女性と、相撲取りのような太ったマサイ風の男性のカップルが手をつないで歩いているといった、おぞましくもこっけいで、悲しい光景も見る事ができる。

しかしそんなマリンディも街の一部だけで、内陸部へちょっと入ると、あれ程うじゃうじゃ居た外国人も全然いなくなってしまうし、そこには豊かな自然に囲まれた、赤土の大地がずっっっと広がっている。

さて、先のマドゥングニの村には、街からバスで1時間程行き、そこから更に40分くらい歩いたところにある。近くには、カバの親子が住む大きな沼と、色々な野生動物の住む大きな森がある。その昔、ムゼーC・Sは、この村の近くに住んでいたそうだ。だから二人は、古い馴染みらしいのだが、まあムゼーC・Sの名前はギリアマのほとんどの村で、IDカードのように使える。

僕達が村に着いた時、その問題の人(僕のちょっとした知り合いとなる)ムゼーカヒンディは丁度畑へ出ていたので、子供を使いにやり、僕達は木陰でひと休み、しばらくすると、マーシャが子供達に太鼓を持ってこさせると、4?10歳くらいの子供達がそれぞれに大小の太鼓を持ってやってくるやってくる!「さあ、お客さんだぞ!只この人はここにンンゴマを勉強しにきたんだ!」とマーシャが説明してくれ、僕もブルーシを叩き、自己紹介した。

それから子供達のンゴマが始まった。マーシャがチャプオを叩き、もう片方のチャプオ、デベ、ブンブンブ、特にムションドを子供達がとっかえひっかえしながら自慢の腕を披露してくれる。これがもう凄い凄い!!皆凄い!只々凄い!何なのだろう、この子供達は!?田舎ヘ行けば行く程、特に優れたンゴマのムピカジ達が居る村には「こいつは天才か?」と思う程上手な子供がいる。
まぁ、この手の話しは、色々な所で語られているが、例えばその太鼓言葉の一つも理解出来ないやつが、その楽器の由来、歴史も知らず、又実際に操る事も出来ない奴が「天才!天才!」とさわいでも、意味がないし、逆に頭に来る!
しかし、僕も当時そんな子供達を初めて目の前にした時は、びっくりしたし、「天才」だと思ったし、実際そう言っていた。でも、最近はこう思うんだ。
「太鼓だけ見たり、その楽器の演奏能力だけを見て判断するのは間違っている。」だって、これはンゴマなんだから。いわゆる日本で言う「音楽」じゃないんだ。

体験した人なら分ってもらえると思うけど、「ンゴマ」は皆のアンサンブルだから、コンサートやライブや、発表会じゃないんだ。全員がそのアンサンブルの一部で、しかしその個人々々は、自分自身がキモチヨクなる為に全員での絶妙なる調和を作り上げるというものだから・・・。
そんなものが生まれた時から生活の一部としてあり、近くには当たり前のように各楽器のマスター達が居て、彼等が先代から受け継いだものを、呆れる程ゆっくりと長い時間をかけ、呆れる程自然に年を重ねるごとに学んでいく。そこにはその民族のアイデンティティに関わる重要な要素がたくさん含まれていて、したがって、だからこそ生活と切り離す事なんか出来ないのだ。そんな事がずっと長い間何世代にもわったって脈々と繰り返していく中で、子供達は育つわけだから・・・。

僕にはそんな事を上手に評価する言葉なんてありません。又、その中で特に上手な子は、やっぱりマスター達のもとで、厳しい練習をして、本人の努力もあって、そこまで上手になるわけで・・・。

ただし、僕自身やそれらを学びたいと思っている者からは、わずか6歳かそこらで自在に太鼓を操る子供を羨ましく思うし、今でもそんな子供達に会って歳を聞いた後、「アチャーッ」と思う事もある。でも、その裏側に、さっき言った事の凄さ、大きさ、重さ、大切さなんかをもっと感じるのです。

まぁ、とにかくその子供達のンゴマはすごくて、ゴンダのように、キメがたくさんあるわけではないので慣れてくると僕もチャプオやデベを叩き仲間に入れてもらった。
1人の子が、チェチェメコを持ってくると、他の子達もダーッとチェチェメコだらけになり、ぐーんと音に厚みが増して、太鼓も迫力を増し、デベのスピードも速くなり、叫んだり、泣き出す子も出て来てバリバリに盛上がってきた。

2時間程して一度落ち着くと、マーシャが子供達にお礼として、これまた凄いムションドのソロを見せてくれた。するとこの子供達はビビるどころか「よっしゃー!」といった感じで、又我こそはと自慢の腕前を披露し始めるではないか!!

今度はソロに近い型なので、僕もじっくりと1人づつ見る事が出来た。その中でもずば抜けて上手な子が1人居て、まだ小さくて両足でムションドを支え切れないかれは片足になって色々なンゴマ・ヤ・ペポを叩いてみせてくれた。そして、というかやっぱり、その子はムゼーカヒンディの子供だった。

このムゼーカヒンディの村には、ゴンダ・マブンブンブ等ではなく、ンゴマ・ヤ・ペポが驚く程たくさんのこっている。前に話したムガンガ・ワ・クヴォエラの中で特に凄い力を発揮し、数々の村を渡り歩きたくさんの問題を解決していった伝説的なムガンガが2人居た。

1人の名をカヴィハ・ワ・ムタマといい、もう1人をチャンガワ・ワ・イシンニという。(残念ながら近年2人共亡くなられた)そして、このチャンガワ・ワ・イシンニが自分の力を発揮する時、欠かす事の出来なかったンゴマの叩き手がムゼーカヒンディだったのだ。

そんな事も知らず(聞かされず)のんきにマーシャ達と待っていると、ムゼーがさっき使いにやった子供達と一緒に帰ってきた。

初めて会うムゼーカヒンディの印象は、ひょろっと背の高い、ニコニコした人の良さそうなお爺さんだった。簡単な挨拶を済ませ、マーシャがムゼーに何か話している。どうやら今夜のンゴマの為に近所のンゴマ叩き達を呼びに行ってくるらしい。

今日は12月31日、僕の役目は1斗缶3つ分のヤシ酒を用意する事で合意を得た。
なんだか凄い夜になりそうだ。

マーシャ達が出かけると再び子供達のンゴマが始まった。一体何時間叩いていたのだろうか? 陽が沈んで真っ暗になると、帰ってきた大人達のンゴマが始まったのだが、ムゼーは叩かず、一心にヤシ酒を飲んでいた。しばらくすると、ムゼーはどこかへ消え、戻ってきたと思ったら身体に獣の毛皮をまとい、片手にシャカシャカいうひょうたんを持ったまま皆の中央に座り、じっとうずくまってしまった。

それを太鼓と歌い手の皆であおるように盛り上げると、だんだんと身を起こし、ザッザッと小刻みに震えながら踊りだした。

ゴンダやマブンブンブの踊りと違い、決して華のある派手な踊りではないのだが、その姿は昼間の印象とは一変して一種異様な雰囲気をかもし出し、すると皆のテンションも無気味な盛り上がりを見せた。(ちょっと怖かった)

しかし、そのテンションはムゼーが踊りを止めてしまったので長続きせず、ムゼーは又ヤシ酒を飲み始めた。ムゼーが入った時の(当時何も知らない僕にとっては)異様な雰囲気のンゴマよりも、ムゼー抜きの方が取っ付きやすく、これはこれでバリバリに盛上がり、夜中まで続いた。

肝心のムゼーはもうベロベロで、終わり近くに少し叩いてくれただけだったが、そのンゴマはヤバイ!ンゴマ・ヤ・ペポだよ。他のゴンダなんか凄い叩き手をみて、「うおー!」と血が逆流するような感じと違って、なんか意識がふっと何処かへ連れていかれるようなンゴマだった。ムゼーカヒンディのムションドは、倍音が「ビーン」と頭に響き、色々混ざりあったチャプオメとデベ、唄声、叫び声の中で繰り返される
「ビーン」に身をまかせていると、僕はおかしくなっちゃいそうだった・・・。うーん。、、と踏ん張っていたら、ムゼーはサッと叩くのを止めてしまい(アラッ?)、皆はそのムゼーの太鼓に火をつけられたように最後にもう一度盛り上がりをみせ、その長い夜は終わった。いやー、長かった。凄かった。

この後、村に2、3泊して、その後も何度か訪れたのだが、その度にムゼーの凄さを知らされる事になる。
実は、このムぜーカヒンディは、ンゴマ・ヤ・ペポの凄腕であると同時に、腕の良い太鼓職人でもあり、有名な森の狩人でもあるのだ。自分で森に入って木を切り倒し、削り、獣を倒し、肉を食べ、皮を削ぎ、その皮を張って太鼓を作る。何でもかんでも全部自分でやる。昔からそうしてきた。(ムゼーのブンブンブはその型に特徴があるのですぐにわかる。いい音がする!但し、重いけど)

一見本当に痩せた背の高い、人の良さそうなお爺さんなのに、その体力!とても70代とは思えない。一度ムゼーに「パポ トゥ」(すぐそこだよ)と言われ、凄い急斜面を何時間もぶっとうしで歩かされた。しかもすごいスピードで。又、近所の村(僕にとっては遠い)で行われたンゴマを観に言った帰り、近道だからといって、真っ暗な森の中を1人でぐんぐん歩いていってしまう。
他の時も、D君と一緒に「パポ トゥ」と言われ、半日近く歩かされたし……。とにかくあんな強じんな筋肉を持った70代は見た事がない。

一度、ムゼーはどんな道具で狩りをするのかときくと、先が黒い変なものがぬってある弓矢を見せてくれた。冗談めかしてちょっと構えてみてよと言うと、始めは笑っていたが、ニコニコしたお爺さんとはまるで別人になってしまった!

しかし、この村の生活も今どんどん変わってきている。昔の様に自由に狩りをする事が出来なくなってしまった。太鼓もわざわざマドゥングニまで来て、ムゼーの所で買う人も少なくなってしまった。弟さん(彼も凄い狩人だったらしい)が事故で亡くなって、その家族の面倒もみなければならないし、ムゼー達の生活は今、大変だ。

この村のンゴマ・ヤ・ペポもどんどんなくなりつつある。ンゴマに興味があって、上手に叩けたり、歌えたり、と、ンゴマと自然な型で生活しているのは子供達とムゼー達だけで、村の若者達はなんだか時代錯誤な、ひどく邪魔なものとしてとらえている。

それはギリアマの社会における、ムガンガ達の位置などにも関係があるかも知れない。
当時、僕が初めて村を訪れた時も、ムゼー自身ももうンゴマを叩く事から遠ざかってしまっているようだった。

「ムゼーカヒンディ」自称73歳、一見人の良さそうなお爺さん(実際にこんなに優しい人はいないと思う程純朴な人なのだが)ンゴマ職人、森の狩人、そしてあの有名なムガンガ「チャンガワ・ワ・イシンニ」がその力を発揮し、数々の問題を解決していく時、絶対欠く事の出来なかったンゴマ・ヤ・ペポの凄腕のムピカジ。ムゼーの名前は他のゴンダ・マブンブンブの名手達の様にはマシンダノのような華々しい表舞台に出てくる事はなかっただろうし、多分これかれもないだろう。

彼のンゴマには、常にウガンガ(呪術)がつきまとう。そして、そのンゴマの持つ力の凄さは、皆の歌うムゼーのために作られたンゴマ・ヤ・ペポで十分に証明されている。

『ムワナ アング ナムリカ エー ムワナ アング ジェリ ナムリカ ムピジ ワ ンゴマ カナ ハヤ カヒンディ ワ サンジェ ムワナ アング レロ ンゾー ウピゲ ンゴマ ヤ ウガンガ』
『私の素晴らしい息子、本当に素晴らしいンゴマ叩き、カヒンディ・ワ・サンジェ 今夜もウガンガのンゴマを叩きに来ておくれ』

伝説的ムガンガ・ワ・クヴォエラ「チャンガワ・ワ・イシンニ」 彼がその力を使って呪術師ムチャウィを狩り出す時、常にその後ろで彼の為にウガンガ(呪)の太鼓を叩いていたンゴマ・ヤ・ペポの凄腕。

僕は後10年いや20年早く生まれたかった。そして、実際にその時の姿を見てみたかった。すでに「チャンガワ・ワ・イシンニ」も亡くなってしまいその役目を引退してしまったムゼーだが、今でもその片りんを見せてくれる。

ここに一本のカセットテープがある。D君がムゼーに頼み、全てをムゼーに仕切ってもらい、ンゴマ・ヤ・ペポをずらーっと近隣に住むムゼー達を集めて叩き歌ってもらったものだ。
凄い、凄すぎる。
完全にペポが降りてひきつけを起こしている人。
何より、全開のムゼーの叩くンゴマ! いやー、凄い!

僕らがムゼーのンゴマ・ヤ・ペポに関わる事で、再びムゼーがンゴマ・ヤ・ペポを叩く事とその偉大なる知を次の世代へ受け継がせていく事に目覚めてくれたのだったかこれほど嬉しい事はない。

皆さん、ンゴマ・ヤ・ペポの真随を知りたい時、この村を訪れたら・・・ただし、充分な覚悟を持って!


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さて今回は、ンゴマ・ヤ・ペポについての僕自身が体験したエピソードをいくつか話そう。


前回の僕にとっては一つのイニシエーションと言ってもいい程強烈な印象のサファリの後、再びナイロビでのンゴマのレッスンが始まったのだが・・・。
いろいろとンゴマ・ヤ・ペポを習っていく上で、当然「ペポ」自体についても、ムガンガやムチャウィ自体についてもあれこれ考えるようになってくる。

まず、「コロワ(kolowa)」というペポについて。 
これは悪いペポで、コロワに捕まると目が見えなくなるか、心が盲目になり善悪の区別がまったくつかなくなるのだと言う。唄はこんな感じだ。
「コロワ ウェ アウェ コロワ クチャ ムウェズィ ワレ?」
クチャはアチャで離す、離れる、放っておくと言った意味で、mweziは月、月を離す・・・。
「コロワよ月を離してやっとくれ・・・。」

電気もガスもない山奥の生活で、月明かりはとても重要だ。満月の夜など「月ってこんなに明るいっけ?」と驚いた事のある人も多いと思う。
木々の隙間から差し込む月明かりだけを頼りに森の中を歩いている時、急に大きな雲に月を隠されてしまう。すると、僕らはまるで闇に飲み込まれたような格好となり、文字通り目の前が真っ暗になる。手元にトーチ・ライトも何も無い時、森の中の闇はどんどんその深さを増し、僕らの身体にしみ込んでくる。

その時、僕らは言い様のない不安に襲われる。

「コロワ」はペポであると同時に、そのように月が食べられてしまって、いきなり暗闇に襲われると言った状態の事も指す言葉でもあるらしい。そういえば、マーシャも説明する時「ギザ(暗い)」という言葉をさかんに使っていた。

その昔、日本のもののけ達は物事の「事」の方であったらしい。
例えばゲゲゲの鬼太郎に出てくる「ぬりかべ」は夜歩いていて、何も無いはずなのに急に前に進めなくなってしまう「事」であったらしい。この出来事は当然1人だけでは無く、同時期に何人も起ったのだろう。その不可解な出来事には名前がつき、そしてそのもののけの仕業と皆に認識されるようになったらしい。それをマンガで表現する為にあの「ぬりかべ」となり、その「事」の部分は忘れられ、「物」(キャラクター)だけが残ったらしいのだ。そんな事を某小説家が言っていた。
まるでコロワのようじゃん!?

アフリカ全土で良く言われる「トーキング・ドラム」(これも英語だよね)。
これにも、丸太をくり抜いたスリットドラムのようなものから、砂時計状のボディーの両面に皮が張ってあり、そのボディーに張り巡らされた皮ひもを脇で調節してピッチを変えるようなものまで、たくさん種類がある。これも良く考えれば誤りだと分るだろうけど。だって、英語じゃん!? 英語じゃ無理。アフリカの文化を表現し切れないよ・・・。

アフリカの僕が知っているほぼ全ての楽器が「話す」「ものを語る」といってもいいよ。ブンブンブ、ムションド、チャプオ、オハングラ、オルトゥ、ニャティティ、リトゥング、オボカノetc.
ガンダの人達のバキシンバなんて「ンゴマ・ンジョケジ」=「語るンゴマ」って呼んだりもするんだ。「トーキングドラム」なんてせこい名前より、全然いいじゃない!!

アフリカの楽器は全て「トーキング」だ!!

さて、この話す部分についても誤解が多いよ。良く言う遠距離伝達の方法として太鼓が使われ、よって「トーキング」と呼ぶ人がいるけど、それは間違いではないけど、全部ではない。帯に短したすきに長しだな。ンゴマは大勢の人の前でも叩かれるし、何度も言うけど皆参加が必須条件だ。

高度に発達した技術によって、普通に口を使って話すように太鼓で話す民族もいる。
そしてそれを僕らは認めなくてはならない。しかし、長い間文字を持たなかった多くのアフリカの民族にとっての、ヴァーヴァルコミュニケーションと、我々日本人のヴァーヴァルコミュニケーションの感覚、形態は違うんじゃないかな?と、僕は思う。

アフリカの人達はその多くが文字を持たなかった。でも、馬鹿じゃない!! むしろ、それを未開で原始的ととらえている、多くの自称先進国の人間が愚かなのだ。

言葉がなかったわけではない。むしろ、馬鹿馬鹿しく教育される前のアフリカの人は、文字を持たなかった故に肉声によるコミュニケーションの感覚は、我々現代人より遥かに上だと言える。単語の数ではないのだ。問題は、そのすぐれた感覚を持ってしてもつたえ切れない壁が言語にはあるのだ。
言葉は非常に便利な故に、時として非常に不便であり、物事の「事」の方、型の無いものをなかなか伝えられない場合があるのを、ちょっと頭のきれるやつはすぐにピーンとくるだろう??

小学校の時、図工の先生が言っていた。
「何故我々は素晴らしく精密な仕組みを持つ<カメラ>を生み出したのに<絵>を描くことをやめないのだろう?」と。
またある詩人は言っていた。
「紙に書かれただけなら50%、肉声で伝えれば90%。それにピッタリのリズム・メロディーがつけばその詩は単なる言葉以上の力を持つ」と。

何故、全てのペポには独自のリズム、唄がつきンゴマとなったのか??

「ンゴマはマイシャだ」とマーシャが言っていた。名言だ。マーシャ・・・君はいつも正しい。

「ギリアマの中にもキリスト教やイスラム教を信じている人達もいる。しかし、それは宗教だ。ギリアマの人間がギリアマの人間として持つアイデンティティーはそこには無い」と。

この言葉には現代の多くのアフリカの国々・民族の抱える問題と、その解決の糸口、ズバリを言い表しているように思える。だましうちのように教育されてしまった我々が、本当に彼等の為にできる、しなければならない事は何なのかを・・・。

ンゴマは生きている、だから、死に絶えたら生き返りはしない。
僕らは今の生活とひきかえに、我々のンゴマ・ペポを殺してしまった。
「人間は光と闇で出来ているから、そのバランスが大事なんだよ」と、あるムガンガが言った。
皆、愚かなものは未開の土地に住む、無知な、非科学的な土着民達だと。口には出さなくても、思っているように思う。そして我々文明人は、知恵に溢れ、科学は万能だと・・・。何度も言うけれど、全て相反する、矛盾する事で出来上がっているのだから。どっちも見てきた僕には愚かなのは我々のような気がしてならない。


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「ヘ? ムワリム ンゾエー ゾェ クルワニ ンゾェ?」
という唄のンゴマ・ヤ・ペポがある。このペポの名前は「ムワリム」だ。

うちの学校の卒業生や、スワヒリ語を少し勉強した事のある人なら知っているだろう。
ムワリム・ボテラ、ムワリム・チャチャ、ムワリム・ジュリアス、ムワリム・俵……これはあまり聞かないが・・・。
ムワリムの意味は「先生」又は「教師」だ。それ以外の使い方はナイロビではまず聞かないし……この話しのずっと始めの方で蔦田さんも<広義で医師の意も>と書いていた。しかし、実は……!!!

前回のコロワでペポの解読(?)に味をしめた僕は、この<ムワリム>で再び迷路に迷い込み、四苦八苦したあげく、劇的な結末を迎えるのだ!!

これから話す事は正しいか、間違っているかは分からないけれど、多分正しいと思うし、スリル・ドキドキの展開だぜ?蔦田さん!!

「コロワ」がなんとなく自分で分ったような気がしたので、僕は割と調子に乗っていた。

ある日曜日の午後、マーシャとガラマ2人にンゴマを習っていた。お約束のゴンダ・マブンブンブが終わり、シメに新しいンゴマ・ヤ・ペポを習う事になった。そして始めの唄だ。

まず歌ってもらい、ざっと歌詞を書き取った後で、

  俵:     このンゴマの名前は?
  マーシャ: ムワリムだ。以前マブンブンブで勉強したろ? あれの原曲がこのンゴマ・ヤ・ペポだ」

*マブンブンブではンゴマ・ヤ・ペポから引っ張ってきて、組み直した唄がたくさんある。他に、ティママ・カンピローロなど。ちなみにこっちの唄は、「ムワリム ウェー ンゴマヤ ムワリム ウェ?ハ? ムワリム ウェ? ンゴマヤ ムガンガ ムワリム ウェ?ハ?」となる。

  俵:     ああ、あれね。唄の意味は? (ここからが問題だ。)
  マーシャ: んっ、ムワリムはペポだ。
  俵:     え?! (何で「先生」が「精霊」なんだろう?! すると横からガラマが、)
  ガラマ:   いや、ムワリムはムガンガの一種で……(と口をはさむや否や)
  マーシャ: ちょっとムゼー!!勝手な事は言わないでくれ! ムワリムはペポだ! 断じてムガンガでは無い! 
         あんたはちょっと黙っててくれ!!

いつになく激しい口調で厳しく言い放ったので、ガラマはぶつぶつ言いながらそっぽを向いてシヴォティなんか吹き始めた。
するとマーシャが続ける。

  マーシャ: タワラ、……ムワリムはペポだ。そしてムワリムはイスラム教徒のペポなのだ。
  俵:     え?!ちょっとまって! (マーシャは止まらない)
  マーシャ: クルワニというのは、ほらっ?あれだ。 お前はスワヒリの女性と仲がいいからわかるだろ? ムスリム(イスラム教徒)は何を読む? お前ら、仏教徒はあれだろ? ナンミョーホーレンゲキョー。

*マーシャは仕事の都合で創価学会に入信し、統一教会の会員でもあり、何か色々な所に所属している。本人はそれら全部は仕事の為で、後は尻のカッパらしい。

  俵: えっ?コーラン? (とりあえず答えるが、頭の中はパニック寸前)
  マーシャ:そうだ、ムワリムはムスリムだから、コーランの道を通っておいて下さいと呼び掛けているんだ。

どうして「先生」が「精霊」で「精霊」にどうして「宗教」があるのか? 頭の中はパニックだ。
するとマーシャは、

  マーシャ: だからー。 ムワリムはペポだ。 そしてムスリムなのだ。 ムスリムはコーランだろ? わかるな? 
         だからコーランの道を通って出てきてくれと呼び掛けているのだ。 どこもおかしくないじゃないか?

どーして分からないんだ?と、いぶかしげな表情をうかべる。

  俵:     だからー、どうしてムワリムがペポなの? どうしてペポがムスリムなの?!

マーシャはやれやれといった表情で、

  マーシャ: だからー。 ムワリムはペポなんだよ。 ムワリムは知っているだろう? ムワリム俵? アッハッハ! 
         だからそのムワリムはペポなんだよ! そしてムスリムなのだ!
         ほら、マリンディにはムスリムがたくさん居るだろ? だから、ムワリムはムスリムなのだ! 
         クリスチャンはバイブルだろ? 仏教徒はあれだ、ナンミョウホーレンゲーキョ。 ムスリムはコーランだろ? 
         何も問題はないじゃないか?

もうこれ以上話しても無駄だと言った感じで、話しを打ち切られる。

僕はと言えば「なーんか、マーシャも嘘臭いんじゃなーい?」と疑りの目。案外、ンゴマ・ヤ・ペポなんて数少ないのかな?マーシャもネタ切れか?と思いつつ、一応練習を再開する。そして何となくしっくりこないままその日の練習は終わり、僕の中では結局何一つはっきりしないまま「マーシャの言う事だからな。」と無理矢理納得していた。

このなぞの答えは意外な所から劇的なカタチでワカッタノダ!!

D君の同期生で、Mさんという女性が居た。彼女はコーストをフラフラしたあげく、縁あって、マリンディの海岸沿いの家の一部屋を借りる事になる。もちろんスワヒリの人の家だ。そこは時々日本人旅行者やうちの卒業生達が出入りするようになり、D君もたまに村から街へ出てきた時に立ち寄ったりしていた。そこでD君は意外な人に出会い、思わず片膝をついて握手を求め挨拶をするのだが、誰だと思う? その人とは、マーシャの父親、ムゼーC・Sだったのだ。

一体スワヒリの家へ何をしに? 実は、この家の長のムゼーもムガンガで、またかなり有名な人で、二人はよくこうやって相談し合ったりしているらしいのだ。かなりの年長者で、ムゼーC・Sとムガンガ談義をするくらいだから、そりゃー凄腕だろう。

その話しを聞いた当時の僕のルームメイトのK君は、その頃、スワヒリ族とミジケンダの人達との関係を言語の方からアプローチしていた為、次の休みの時にそこに訪れる事になるのである。

そのK君がサファリから帰ってきて、ある晩に、またいつものように二人でコアな話しをしていると、ふいにそのムゼーの話しとムガンガの話しになり、

  K君: いやー、ムワリムというのは先生とかの意味だけではなくて、スワヒリ族の中では、僕らの言うムガンガとしても使われるんだよね。 ムワリムの語源はアラビックの<エリム>で、エデュケーション、つまりイスラムの洗礼、コーランの教えを得た者の伝統療法師がムワリム、まったくの土着の伝統療法師がムガンガ、いわゆる西洋の医者がダクタリらしいよ。 だから、Mさんの所のムゼーはムガンガではなくてムワリムなのだな。 いやー、スワヒリはやっぱり面白いね。

その瞬間、マーシャの言っていた事が理解出来た!! 彼はやっぱり絶対的にいつものように正しかったのだ! 只僕がものを知らなかっただけなのだ!と。 K君はその後もスワヒリ族について語っていたが、もう僕は興奮して覚えていない。

勘の良い人ならもうわかったでしょ??

スワヒリ族はアラブの商人達と海岸地方に住むバントゥ?系の民族との混血だと言われている。 そのバントゥ?系の民族がミジケンダだった可能性は高い。そうじゃなくても、絶対に何らかの接触が合ったはずなのだ。
当時のミジケンダの人達にとって、アラブから海を渡ってきた人達の文化はどんなふうにうつったのだろう? 彼等の知らない他の治療法を持っていたかも知れない。どっちが進んでいたかは別問題で、とにかく接触はあっただろうし、お互いに影響しあったのだろう。

スワヒリ族は、アラブからやってきた文化を受け入れた。従って、同じ伝統治療師でも、ムガンガとムワリムがいるのだろう。 ミジケンダの人、否、ギリアマの人達は、彼等と接触し、影響を受け、交わる部分もあっただろう。が、受け入れる事を拒んだのだと思う。従って、ムワリムは、ペポという型になってギリアマの社会に存在する事を許されたのではないか?

元々海岸近くにいたのに、拒んだ為に内陸へ入っていったのか、受け入れた人達がスワヒリ族のもとになり、拒んだ者たちがギリアマとして残っていったのか、それは僕には分からない。だがこれだけは言える。この二つの民族(特にスワヒリはアラブの影響がモロだが)ギリアマの人達もその昔アラブと接触が多々あったのだろう。しかし、このムワリム達をそのまま受け入れる事を拒んだ。その結果、ムワリムはペポになったのだ。

ペポ=精霊、木の精、花の精のような物だけだと解釈していた僕の間違いだったのだ。
なんとも幼稚な精神構造、何ともマンガちっくな考え方だったのだろうと思う。
恥ずかしい。

又、東アフリカの多くの民族では、一つの唄が生まれる時、何らかの刺激が外から入って来た事が原因になる事が多いと言う。それは良い刺激か悪いショックか。そのレベルも個人的なものから大勢を巻き込んでのものまで色々だが。
つまり、ンゴマが新しく生まれる時は常にライブであるという事だ。そして、その新しく生まれたンゴマは歌い継がれていく間ずっと生き続けるのだが、と同時に昔の節、リズムに乗せ唄だけ新しくしたりするらしい。とにかく大昔の出来事を思い出して新しいンゴマがうまれると言う事はないらしい。

ンゴマの誕生は常にライブなのだ。
生き物なのだから当たり前だ。

じゃあ、前に僕の解釈は割と的を得ているのではないか?と思うのだが、どうか?そしてこの「ムワリム」は相当古いンゴマになるのではないか?まあ、普通に考えてみても、ンゴマ・ヤ・ペポはゴンダやマブンブンブより古い型と言うのは分かるのだが、興味のある人はこれらたくさんあるペポ誕生の秘密をこのンゴマ・ヤ・ペポから探っていくと面白いと思うよ。

今回の一件はマーシャの説明がそっくりそのまま100%正しかったのだ。只それを読み取る力が僕にまだ無かっただけなのだ。

いやー、難しいね。面白いね!やめられないね!!一生勉強だ。

ペポという物がなんだか一瞬だけリアルな感覚として感じられたような気がした。

多分、ガラマはあのときこういった説明をしようとしたんだと思う。でもそれじゃ意味がなかったんだ。・・・多分。

僕はマーシャにンゴマの世界の扉を開けてもらい、余計な知識を捨ててまっさらでその世界に入っていく!と、あれ程固く決意したのに、バカバカしく教育された僕をまだ僕は捨て切れないでいる。

今までもずっとそうだったように、マーシャは今回も正しかったのだ。

あーあ、一体俺は何をやっているのだろう? 愚かだ……俺は……。



<続編5>

<ンゴマ・ヤ・ペポ> =精霊たちのンゴマ=
演奏中の不可思議体験

(2002/06/21)

これは……。 今まであまり話した事がないのだけれど……。
僕はこのweb-site上のンゴマのレポートを、ある覚悟を持って書いているので書きます。

今ではどうだか分からないけど僕がナイロビの学校(※JACII)に勤めていた時は、日本人の学生達に全部で4回のンゴマの授業をやっていたのね。僕としては凄いチャンスだったからさ。皆に本物を見てもらいたかったし、日本で、いや、世界中でテキトーな事を言っている人達に衝撃を与えたかったし、逆にナイロビで本当に凄い実力があるのに桧舞台をみれないでいるマーシャ達への、僕の出来る恩返しでもあった。

たった4回だけどどこにも負けない授業をやろう!とマーシャと話しをして、相当濃い授業をしてきたつもりなんだわ。

詳しく例をあげると……。

1回目 マーシャ+クイチャ、イディ達で、出来るだけ多くの、ケニア諸民族の数々のンゴマを見せる。凄いよ・・・。 一流のムピカジに、少しでも手を抜いたら怒り狂う俺が見ているからね。間違えたり、ごまかしたりしたらすぐ分かるし・・・。ボーマスのショウより上だな、全然!! 
又、この時使う楽器はできる限り本物を調達していた為、僕のお金は飛んでいき、太鼓はどんどん増え、自分の部屋に入りきらなくなり、とうとう一部屋つぶして(K君ごめん)太鼓の倉庫を作った(皮くさーいの!)。

2回目 <ゴンダ> <マブンブンブ>を実際に踊りと歌と太鼓を叩いて体験してみる。前に話した<マツァカ>なんかはこれね。

3回目 この日は話しだけで、ギリアマの<ムガンガ・ペポ>についての説明。勿論、マーシャのスワヒリ語だけの話しだから、学生は大変だったと思う。

4回目 いくつかのグループ・パートに分かれて、<ンゴマ・ヤ・ペポ>を習う。ペポ(※精霊)の名は「ブルーシ」。 最後に皆で一緒にンゴマを叩き歌う。ブルーシを選んだ理由は、リズム・唄のとっつきやすさと、そのペポの性質(良いペポだから、万が一降りてきても心配がない為)、以上の2点だった。

他にもニャティティのムゼーを連れてきたり、ポコモをやったり、チャカッチャをやったりと、色々やってみた。苦労した点は、皆で体験できるレベルと、彼等(マーシャ達)のマックスの実力との妥協点だな。どうやってある一定のレベルを保ちながら、ンゴマを皆に体験してもらおうか?といったことだ。

僕の財布からペサ(お金)はどんどん消えていくし、本当は日本語の先生だろ?!とか言われたけれど。とにかく楽しかったし、意味のある仕事だった。チャンスをくれたK君、そして上田先生、ありがとうございました。

さて、ある4回目、最後の授業が終わった後、僕はマーシャ達と話しをしていると、ふいに僕がムションドとブンブンブを叩いて唄い、マーシャ、ガラマがチャプオで支えてくれる、と言う事になった。

二人の師をしたがえて、いわば僕がメインを務めた。いやー気持ち良かった! やったンゴマはもちろんブルーシだ。

「ブルーシ レロー ムワナー アナリラ ホヮ・・・」
歌う声もだんだん本気になってくる。叩けば叩く程に、歌えば歌う程に、マーシャ達のンゴマと僕のンゴマが絡み合い始め、だんだんと「質感」を持ってくる。僕の歌、彼等の歌、全員の太鼓がどんどん一つの「質感」を持ってきて、気持ち良くなってきて、ンゴマを叩くその手も、歌も、自分じゃもう止められないような気になってくる。

すると突然、「ギジッ ギジッ」と、ブンブンブとムションドを叩いたその手から何か変な物が腕をかけ上がってきたのだ!!??

半分眠ったまま枕に手をやってまさぐり、何かを掴んだのでぐっと握るとそれはでっかいヤモリ――又は、ネズミ――で、ビックリしたヤモリ(ネズミ)はブルブルッと身をよじって逃げる。僕は僕でひどくビックリしてベッドから飛び起きる! そんな感じ。

あまりに突然のことでビックリした僕は(恐怖したのかも知れない)、太鼓を放りだしてしまう。
あとには「何だ?」といった顔の二人だけが残った。

僕が焦って、興奮して怯えて、メチャメチャなスワヒリ語で説明すると、二人は「ペポだ。ブルーシだよ」と笑っている。
二十数年生きてきて、初めて味わったあの感覚・・・。
そんな物当たり前の事じゃないか、どうして途中で止めたんだ?と、半ば呆れながら笑っている彼等・・・。

まただ。コロワ、ムワリムときて、やっと何か分ったつもりになったのに、また!振り出しに戻ってしまった。
何だったんだろう、あれは?
「ビビビッ」と腕をかけ登ってきたあの感じ。まったく異質のものだった。
その後何度か同じようにブルーシを叩いてみても、あの感じは戻ってこなかった。
けれど、絶対に忘れない。あの感じ。
「ビビビッ」
次は、必ずあれに身をまかせてみようと思う。
そうしたら、またもう一歩奥へ入っていけるような気がするのだ。

今まで、この話しはしてきた事がなかった。理由は色々あるが、あんまりリアルな感覚だったから、自分の中で整理がつかないうちに他人に伝えられるか?と思ったからだ。結局僕には分からない事ばかりで、奥に進めばどんどんその奥が見えてきて、終わりがない。あーあ、いつまで続くのだろう?と言いながら、僕の胸はワクワクドキドキと、期待でいっぱいだ!!
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